いよいよ『孟子』全篇末尾の一章前となった。前後に分けて検討する。
本章は、萬章と交わされた孔子の言葉を巡るかなり長い問答である。この章は、おそらく本来は萬章章句の各章と同じく、弟子の萬章の記録の中の一つだったのであろう。それがあえて萬章章句に収録されずに、ここに置かれている。それには、編集者の意図が必ず隠されているに違いない。
まず萬章は、孔子が陳にいたときに狂簡の者を心配して魯に帰ろうと思い立ったことに疑義を立てる。どうして孔子は、狂簡の者などに気をかけたのか?それはどうも聖人孔子のイメージにそぐわない。君子はむしろ、そのような者を捨て置いて顧みるべきでないのではないか?、、、
その問いに対して、孟子はやはり孔子の言葉を引き合いに出して、ある精神を語る。すなわち、「中道を進む君子に次ぐ格の人間とは、実は狂者であり狷者なのだ」と。いっぽう本章後半では、最も忌まわしい人間類型として「郷原」が挙げられる。郷原とは、直訳すれば「郷里の正直者」である。孔子は「郷原は、徳の賊なり」という言葉を残した。この言葉の解釈は本章後半に行なうとして、孟子が孔子の言葉から読み取ったことは、孔子は決して好々爺然とした「いい人」を君子に近い人間像として見ていないということだ。言うなれば君子が中道を進んで礼に適いエレガントであるのは、志を持って修練した結果である。狂者・狷者は、荒削りであるものの少なくとも「善を行ないたい」という志を持っている。その志が君子となるための人間形成の取っ掛かりとして大事なのだ、と孔子は言いたかったのではないだろうか。だから、孔子にとって狂者や狷者は至らないながらも味方なのである。逆に巷で志もなく平凡に過ごしているよき郷原などは、孔子が最も嫌うものだったのである。
本章の孟子の言葉は、孟子自身に対しての言葉でもあったのではないだろうか。孟子は、孔子を手本にして学びたいと表明している(公孫丑章句上、二)。しかしながら彼は同時代の異説に対して極めて厳しい口調で反論を行い、人々から議論好きだと評判される人物であった(滕文公章句下、九)。その絶対に自説を枉げない精神は、いわば孔子の言う狂者・狷者の精神にも通じているといえようか。もっと言えば孟子は、自分自身のことを狂者・狷者にすぎないと思っていたのかもしれない。だから何とか孔子を学んで中道を進む君子となることを心掛けた。その孔子が評価したのが、郷原よりもむしろ狂者・狷者なのである。孟子は孔子の言葉を聞いて、自らひそかに心を慰めて自負を強めていたのではないだろうか?狂者・狷者でなければ善を志すこともなく、正道を弁護してやまない情熱もありえない。それが、孔子が孟子に時を隔てて渡したメッセージだと内心考えていたとしても、おかしなことではないだろう。
それにしても、それは何のための情熱なのだろうか。むろん、世を正して正道に導きたいという使命感である。しかしながら、これまでもずいぶん検討してきたように、儒教の倫理的主張は、己の行いを正して己の心を仁義礼智の徳に安らかに落ち着かせよ、という点にある。その主張は、西洋のストア派哲学と非常によく似ている。だがストア派哲学では、人間の最終目的は「よく生きること」に尽きる。自分の与えられた運命に従って自分個人がよく生きることができれば、それでよいのである。そこには孟子のような社会改革への展望はないし、そのための切迫した使命感もない。どうして孔子や孟子は個人がよく生きるという倫理を教えるところで止まらず、狂者・狷者すら評価するほどに情熱的な使命感を持つのであろうか?
『論語』にこのような章がある。
ある人が孔子に質問した、
ある人「あなたは、どうして政治に携わらないのですか?」
孔子「書経にこうあります(現存せず)、『孝なるかなこれ孝、兄弟と友情もて付き合い、その徳を政治にまで及ばせる』と。これもまた、政治をなしていると言えましょう。ならば、わざわざ国の政治に携わる必要はありません。」
(爲政篇より)
これは、本章句上、三十二などでの孟子の主張と同様である。孟子と同じく孔子もまた、個人が行いを正すことの向こうに政治を見ているのだ。実際には上の発言とは違って、孔子の生涯は理想の統治を目指して各国を目まぐるしく渡り歩くことに費やされた。だが「世の中をよくしたいために、善を行いたい」という個人的情熱と、「自分が善をなせば、世の中はよくなる」という主張とは本来全然違ったものであるはずだ。ところが儒教では、両者がリンクしているのである。堯・舜・文王などの聖人たちは、己の行いを正した結果として下々が教化されて天下がよく治まったと説かれる。儒教がストア派哲学と最も違う点は、個人が行いを正すことが周囲の他者を共感させて善に巻き込み、さらにはそれがどんどん拡がって何と天下までも正すことができるとまで主張するところである。それは社会の一面の真実を確かに照らしているが、正直言ってあまりにも無茶な倫理である。だが孔子も孟子もその使命感を本気で受け止めていた。だからこそ、本章後半や最末章には、孟子が彼の生前に天下を思想に従って改革できなかったことに対する苦悩のうめき声が収められている。それは、(賢明にも)個人の魂の幸福を追求するところで終わるストア派哲学にはない苦悩である。
そのような儒教の倫理にリアリティを与えるものとして、上下の秩序を制定して目上の者を敬う心を人々に醸成させる「礼」の装置がある。為政者たちの行いが「草が風を加えればなびく」(滕文公章句上、二)ように下々に伝わって慕われるようにするために、天下に礼の秩序を行なわせるのである。だから、孔子も孟子もあれほどまでに「礼」にこだわったのだ。その礼の側面を徹底的に前面に押し出したのが、後世の荀子である。だから荻生徂徠も言うように、荀子は確かに社会倫理としての儒教の正当な後継者であった。しかしながら、すぐに推察できるように、このような礼が国法として適用された社会は、きっと抑圧的な性質を持った全体主義社会であるに違いない。中華帝国は君臣父子の道徳を法刑の恐怖によって補強する刑罰社会であった一方で、その統治は粗放で人民は野放しであり、悪い言葉で言えば中央の官僚だけが「仁政ごっこ」をしていたに過ぎなかった。儒教の主張をそのまま現実社会に適用すれば、このようになるしかないのである。儒教の説く個人倫理は、私も大いに共感するところである。特に、礼の倫理的側面を主張して、他者との共感を呼び起こすためには一定の社会的形式に則らなくてはならないと指摘する点は、ストア派哲学などの西洋思想が見逃している急所であると思う。しかしながら、礼に従うことによって「自分が善をなせば、世の中はよくなる」と主張している点については、それは各個人の比喩的な心掛けとして受け止めるべきであり、孔子や孟子のように現実に国家を動かして制度をいじくるための指針であってはならないと、私は考える。
儒教の考えから具体的な権力にとって実効力のある統治思想を導き出すためには、結局荀子の道しかない。建前は孟子の仁政を、現実は荀子の礼による締め付けを採用したのが、中華帝国の姿であった。しかしながら、孟子と同じ様に人間の主体的倫理を称揚したストア派哲学の栄えた古代ローマにおいては、他方で統治システムとしてのローマ法が定着していた。西洋では、主体的倫理の体系と法の統治システムが両立していた。
ローマにおいては、法は秩序を作るためのインフラとして、イタリア半島を越えて東はイスラエルから西はガリア・ブリタニアまで押し広められることとなった。パウロは、改心を経た後に東地中海各地に伝導の旅に出た。各地で彼らの一行は迫害に会うのだが、『使徒行伝』を読めばどの地にもローマの総督と兵がいて治安維持の任務に付いていることがわかる。エルサレムに戻ったパウロは煽動された群集によって拘束されたが、駆けつけたローマ守備隊に対して自分がローマ市民であることを訴えるや否や、守備隊は彼を保護するのである。そうしてパウロはユダヤ総督に会って、カイザルへの上訴を主張して帝国首都ローマに旅立っていく。新興宗教の教徒パウロの伝道の道は、ローマの法システムによって守られていたのである。当局の目から見れば、キリスト教徒はこのようにローマ法による恩恵を受けながら皇帝やローマの神々を崇めようとせず、軍隊の中では敵との戦闘を拒否しようとする恩知らずの義務違反者として写ったのであろう。キリスト教徒へのたび重なる迫害は、そこに基づいている。しかしながら、とにもかくにも法は法、信仰は信仰としてパウロが両者を便利に使い分けていたことは、後の西洋社会が到達した個人の心の中の善とシステムの便宜とを分離させる考えの原型が既に現れているのである。
一方中国では、法家思想が両者の分離を行なうはずであった。『韓非子』顕学篇は論旨明快な名文で、著作全体の要となる篇の一つである。そこでは儒家・墨家らの個人の善から社会を改革しようとする発想を「適善の善」、すなわち場当たり的な善として斥け、代りに法システムによる統治を「必然の道」として称揚する。これはまさしく心の中の「善」とシステムの「道」をはっきり使い分けるべしという主張であった。そして、その主張は秦始皇帝によって具体的に適用された。まさしく西洋のローマと同じ社会が植え付けられようとしたのである。どうしてそのプロジェクトは挫折したのであろうか?
たとえば『史記』を読んでも、国の法を利益あるものとして従った上で積極的に活用しようとするパウロのような「市民」は一切出てこない。あくまでも法は上から押し付けられてやむなく従わざるを得ないものとして、登場人物たちに印象されているようである。『韓非子』においては、その「必然の道」を管理運営するべき法術の士は、世間から浮き上がった「孤憤」の人であると描写されている。「孤憤」の人だから自分たちを引き上げて救済してくれる明主を待ち望むのであるし、世間から浮いた自分たちでも力を発揮できるように人々が徒党を組んで改革を妨害しようとする企みを厳罰に処すことを望む。現代でも、孤独な官僚たちが本音では時に夢想することではないだろうか。「市民」のいない中華世界では、法は各人が担って活用するものではなくて、目覚めたエリートが上から蔽いかぶせて制御するものとして意識されざるをえなかったのである。それは大なり小なり現代の日本人ら北東アジア社会に住む人々にも共通した意識ではないだろうか。
結局、秦帝国崩壊以降、この「孤憤」する法術の士のエートスは、人民が普通に持っている身の回りの他人への配慮の心を善の基礎とする儒教的なエートスによって飲み込まれてしまった。前にも言ったが、「孤憤」する法術の士のエートスは、必ずや国家への忠誠心によって吊り上げられる必要があるだろう。そうでなければ彼らには善の根拠がないのである。しかし、中華世界には忠誠心を奮い立たせるような国家が成立する状況にはなかったようだ。古代中華世界は、もっと具体的で実感的にわかりやすい儒教を選んだのである。粗放な統治システムの古代帝国では、それで十分だったのである。だがそのシステムを清朝時代にまで持ち越してしまったことが、中華帝国のわざわいとなった。
(2006.04.17、2006.6.11加筆)