盡心章句下
二十六
孟子曰、逃墨必歸於楊、逃楊必歸於儒、歸斯受之而已矣、今之與楊墨辯者、如追放豚、既入其苙、又從而招之。
孟子は言う、
「墨子の説から離れれば、そいつは必ず楊朱の説に向う。しかし楊朱の説を離れれば、必ず我が儒家に帰ってくるのだ。帰ってくるものは、受け入れようではないか。だが現代、楊朱・墨子の説を奉ずる輩と論争する者は、まるで柵から逃げたブタを追うようなことをしている。(折伏されて)もう柵の中に帰ってきたのに、それをわざわざ繋ぎとめようとするのだ。(儒家の教えは全ての異端が必然的に帰ってくる道だから、心配することはない。)」
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本章句上、二十六に続く、墨子と楊朱の説への批判である。両者と儒家の学説との関係については、以前滕文公章句下、九で検討を試みた。
西洋思想でも楊朱(学派)に通じる主張を行なった思想家は存在した。ソクラテスの弟子たちの流れから、アリスティッポス Aristippos のような快楽の主体的な享受を人生の目的と考える一派が起った。その立場が受け継がれて存在論にまで達したならば、エピクロスの主張となるであろう。楊朱(学派)の主張もまたエピクロス同様に快楽主義であると考えられている。しかし楊朱(学派)においては、エピクロスのように魂を安楽に保つことに積極的な価値を見出しているというよりは、栄誉のためにあるがままの欲望を乗り越えよ、と言う儒家の道徳に対するアンチテーゼとしての意味合いが強いように思われる。
しかし、墨家思想に対応するものは、私はあまり聞いたことがない。倫理的内容から見れば原始キリスト教に最も近いが、原始キリスト教は自らのコミュニティーに閉じこもるだけで世俗の国家に干渉して改革しようとはしなかった。小国の利益のために列強の横暴を挫こうとする墨家の姿勢は、むしろ二十世紀のコミュニズムによる植民地解放運動や現代における一部のNGO活動家たちに近いものがある。現代の活動家たちは神出鬼没のインターナショナリストであり、そして墨家もまたそうであった。
(2006.04.12)