次に、孟子の儒教に真っ向から対決したものとみなされる韓非子の体系と孟子を比較してみよう。
一般に思われているように、「老荘思想は国家統治思想と無縁である」という考えは、実は正しくない。『韓非子』の中には「解老篇」「喩老篇」という「老子」を政治術として解釈する試みの篇が入っている。「主道篇」「揚榷篇」(ようかくへん。「かく」はきへんに「確」の右部分)は『老子』の思想の国家システムへの適用法である。
道は万物の始めにして、是非の紀なり。是を以って明君は始めを守りて、以って万物の源を知り、紀を治めて以って善敗の端を知る。故に虚静にして以って待ち、名をして自ら命ぜしめ、事をして自ら定めしむるなり。虚なれば則ち実の情を知り、静なれば則ち動の正を知る。言ある者は自ら名を為し、事有る者は自ら形を為す。形名参同し、これをその情に帰せしむ。
人主の道は、静退以って宝と為す。自ら事を操らずして、拙と巧とを知り、自ら計慮せずして、福と咎とを知る。是を以って言わずして善く応じ、約せずして善を会す。言已に応ずれば則ちその契を執り、事已に会すれば則ちその符を操る。符契の合する所は、賞罰の生ずるところなり。故に群臣その言を陳(の)ぶれば、君その言を以ってその事を授け、その事を以ってその功を責む。
(『韓非子』主道篇より。町田三郎訳注、中公文庫所収の読み下し文を引用。以下も同じ)
《訳》
道は万物の始まりで、是非の大本(おおもと)である。だから明君たるものこの始まりをしっかと守り、それによって万物の源を知り、大本を治めることによって善行と過失の区別の手がかりを知る。そのゆえに、明君は心を虚ろにし行いを静かにして待ち、名(家臣が言上した公約)によってそれ自体を規律させるようにし、事(家臣の行動)を自発的に遂行せざるをえないようにする。心虚ろならば実(家臣の本当の実績)がわかる。行い静かならば家臣の行動の正邪がわかる。何か言上したいとする者がいればそれがそのまま「名」となり、何か仕事をしたいとする者がいればそれがそのまま「形」(家臣が実際になした成果)になる。「形」と「名」を照らし合わせることによって、本当にやりたいことを実現させるのである。
人の上に立つ君主の道は、静かに引きこもっているのが至上である。自分は行動をせずに家臣の巧拙を知り、自分は何も考えずに利益と損害を知る。こうすることによって君主が何も言わなくても家臣は応じ、何も約束しなくても善事を行う。家臣が言上すれば、「契」(契約記録)を保存しておく。行動を行えば、「符」(割符、業務命令書)を保存しておく。「符」と「契」を参照するところから、賞罰が生ずるのである。だから、群臣が言上するときには、君主は言上によって行動許可を授け、行動によってその功を査定するのがよい。
名(家臣が言上した公約)の記録を君主は保持して、それを形(家臣が実際になした成果)と照らし合わせて実(家臣の本当の実績)を知り、賞罰を行う。君主は特定の家臣を愛さず、意志を家臣に示さない。それでも家臣は賞罰の厳格なルールに従って働こうとする。『老子』の無為自然はこのように解釈されるのである。
以前の「有度篇」の叙述を思い出してほしい。君主は「目、耳、判断力」を捨て、法に全てを統治させるのである。統治するのは情実を失った法である。君主を頂点とした社会の構成員の恣意は統治に入り込む余地を失う。統治するものは人間の主観的希望を超えたところにある「間人間的」とでもいえるテキストであるとされる。ここには明らかに、「人間の善意は相手に通じるはずがなく、人と人とは別物であって共感には期待できない」という一種の冷静なあきらめがある。その文脈で『老子』は国家システムの中に読み込まれるのである。賢者によって!
天地は非情である。万物など犬人形ぐらいにしか思っていない。聖人は非情である。人民など犬人形ぐらいにしか思っていない。天地の間は、たとえるならば「ふいご」のようなものであろうか。中はからっぽだが、いくらでも空気が出てくる。これを動かすと、ますます多くの仕事をする。だが言葉については、出せば出すほどますます威力は落ちる。何も言わないにこしたことはない。
(『老子』、第五章)
本源的な宇宙の力を人間の意思以前の存在から湧き出るものと考えて、それをそのままに発揮させる以上の仕事は人為ではできない、というだけの哲学的省察だが、それが国家統治において「君主は間人間的な法に仕事をさせて、何もしない方がかえって国力が増す」と読み替えられるのである。
孟子の仁義の道による愛の政治と韓非子の間人間的なテキストの政治、どっちが正しいのだろうか?
おそらく、どっちも正しく、かつどっちもまちがっている。どっちも社会の一つの面しか見ていない。
再びバジョットの分類を取り出すと、孟子は「権威を持つ」部分が道徳的善意を持ち常に自己反省すべきであると主張する。そして人間の持つ他人に対する情愛が社会をつくる根源であることを明らかにする。その点で正しい。だが、情愛でシステムは作れない。そこには善意は他人に通じるとは限らない、主観的な善どうしがすれ違って衝突することだってありうるという「あきらめ」がないのである。『韓非子』難一篇以降では、儒家どもが顕彰する歴史上の君主たちの仁の心あふれる政治判断が実はいかに公正を乱し国家目的に矛盾しているかを余すところなく論難する。「人に忍びざるの心をもって人に忍びざるの政治」(公孫丑篇上、六)をすれば、実際はどのような弊害が出るかについては『韓非子』の中で全て論じられている。困ったことに、身内への愛や直臣への恩情(つまり惻隠の情)の延長上に天下への奉仕を考えるから、実際の君主へのアドバイスとなると、どうしても「まずは身内と直臣に恩情をかけるところから始めろ」となるであろう。それは必ずネポチズム(身内びいき)に結びつく。天下のことまで憂うような殊勝な君主はめったに出てこないから、システムとして不公正ははなはだしいものとなる。孟子は禹(う)や稷(しょく)が天下のために忙しくて家に帰る暇とてなかったことを賢人として称えているから(離婁章句下、三十)、人の上に立つ者の天下への奉仕精神を何よりも重視していることは確かだ。だが、それは個人の心がけでしかない。全ての上に立つ人がそのようにはならないのだ(しかしそうなったとしてもシステムなしではもっとひどい害悪をもたらすだろう、という「地獄への道は善意によって敷き詰められている」洞察もまたここで心に留めるべきだ)。やはり孟子の教義は個人のための宗教として見るべきであって、統治システムの考察としては単純すぎる。
漢帝国以降、中華帝国は儒教の情愛でシステムを作ろうとした結果道徳の違反者に対して残虐で容赦ない刑罰を課すことになった。法を嫌うはずの儒教が法を強化するのである!「十族を処刑し、子女は奴隷の慰み者にする」(明永楽帝が叛いた高官の方孝孺らに下した処罰)など狂気の沙汰である。そしてその無理なシステムを裏打ちするために、君臣父子の道徳を変態的なまでにゆがめて顕彰した。「父の政治的立場を慮って子が失脚した政敵に嫁ぐはずだった自分の娘を殺したら、父は喜んだ」(明の官僚、徐楷とその息子のエピソード)など、よくも平気でできるものだ。いずれも古代ではない、ずっと啓けたはずの明代の出来事だ。
一方、韓非子は「能率的な」部分を何よりも見据えるため、人間を越えたテキストである「法」に統治させることを主張する。そして儒家のきれいごとをくつがえして、我欲いっぱい詐術いっぱいの人間があまりにもこの世には多すぎ、よき人がさえぎられ抑圧されている実情を明らかにする。それを克服するのは法である。韓非子の主張を彼個人の痛憤と分離することはできない。声の大きい人にも小さい人にも(韓非子はどもりでうまくしゃべれなかった!)公正であるためには、人間の情実はシステムから一掃しなければならない。そうしてできた「法」によるシステムを君主は「術」すなわちルールに基づいた賞罰のインセンティヴで操作する。最も能率的な国家運営ができるはずなのだ。
だが、そうやって作られた透明で「能率的な」システムはそれだけで人を動かし結集することができるだろうか?滕(とう)のような小城で人民が死んでも城を守りきる命がけの団結心を生み出せるだろうか?奥村助右衛門が佐々の大群に囲まれて末盛城を死守したような事業が、ハンニバルに何度も破られ全滅させられながら、それでも屈しなかったローマのような事業ができるだろうか?−できはしない。そのシステムは「他人に配慮する」心を持ち、世のため人のため天下のために生きようとする善意の人の力に支えられなければ、車輪一つ動かせはしない。しょせん韓非子の「名実」を明らかにした「法術」はまず人の力を結集するものが先にあって、その後で適用されるべきものだ。したがって、孟子の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和にしかず」(公孫丑章句下、一)と韓非子の主張は、衝突できるはずがない。
臣は死力を尽して以って君と市し、君は爵禄を垂れて以って臣と市す。君臣の際は、親子の親しきに非ず、計数の命ずる所なり。君が道あらば、則ち臣力を尽して姦生ぜず。
(『韓非子』、難一篇より)
《訳》
家臣は死力を尽して、これをネタに君主と取引し、君主は爵位の名誉と家禄の褒賞をちらつかせて、これをネタに家臣と取引する。君主と家臣の関係は、親子の親密さなどではない。打算の命ずるところによって行われるのである。君主が法に基づき公正な仕置きを行えば、家臣は力を尽してよこしまは生じない。
実は、これは韓非子(学派)が思うほど自明で自足的な原理ではない。韓非子(学派)の人間不信の裏には、このような甘すぎるとも思える人間の積極性への信頼がある。彼(ら)は儒教の政治と道徳を混同する部分だけ攻撃すればよかった。そして儒教の自分の心を鍛え、他人に配慮し、天下に思いを馳せる「善」の精神の部分を抽出救済すれば安定したのである − そのような使い分けをした思想が古代の時点で絶対神への信仰なしで成立しえたかどうかははっきりいって疑問だが。キリスト教ですら信仰と地上の掟の分離をはっきり認識できたのは、宗教改革以降だ。
恐らく韓非子は道徳や人間の心はもう解決済みだとみなして、システムの部分だけに特化して主張したのであろう。『韓非子』の中の用語で、「威厳の勢い」(姦劫弑臣篇)という言葉がある。
世の学者、人主に説くに威厳の勢いに乗じて、以って姦邪の臣を困(くるし)むと曰わずして、皆仁義恵愛と曰うのみ。(通略)夫れ貧困に施与するは、此れ世の所謂(いわゆ)る仁義にして、百姓を哀憐し誅罰に忍びざるは、此れ世の所謂(いわゆ)る恵愛なり。夫れ貧困に施与するあれば、則ち功なき者賞を得、誅罰に忍びざれば、則ち暴乱の者止まず。国に功なくして賞を得る者あらば、則ち民は外敵に当り首を斬るを務めずして、内力田疾作(りきでんしっさく)を急にせず。(中略)故に聖人はその畏るる所を陳(の)べて、以ってその邪を禁じ、その悪む所を設けて、以ってその姦を防ぐ。
(『韓非子』、姦劫弑臣篇より)
《訳》
世の中の学者どもは、君主に「威厳の勢いに乗じて、邪悪でインチキな家臣を叩きのめせ」と言わずに、どいつもこいつも仁義恵愛と言う。(中略)貧困の者に施すのは世に言う「仁義」。百姓をあわれみ刑罰を科さないのは世に言う「恵愛」。だがそもそも貧困の者に施すならばそれは功なき者が報酬を得るということだ。刑罰を行わなければ、暴行乱行の者が後を絶たない。国に功がないのに報酬を得る者がいれば、人民は外に向けては敵と戦い首を挙げようと努力しなくなるし、内ではまじめに精出して耕作しようともしなくなる。(中略)だから聖人たる者は、人の恐れる法を宣言して邪悪を防ぎ、人の憎む法を設けてインチキを防ぐ。
おそらく当時圧倒的勢いを示していた秦で国内に威厳が行き渡っていた実情を見て、主権者の威厳で公正な法を施行するべきだし、そして施行できると確信していたに違いない。ここまで夜警国家的政府観を構想した思想家は、古代中世を通じて世界におそらく韓非子しかいなかったであろう。だが、秦国内で韓非子がはっきり見ることができた「威厳の勢い」とは、それほど大陸全土にも通用できる自明のものであったのだろうか?韓非子(学派)は孔孟の儒教体系が大陸に住む人々の地生えの「善」感覚から養分を吸い取ってできた体系である点を甘く見ていた。
儒教は何といっても宗教である(ただ、私が「宗教」だと言う理由は、それが死者を祀るからとか天にお祈りの儀式をするからとかが理由ではない。人に「なすべき善」を教え、善に対する見返りがきっとあることを信じることを強く主張することが理由である)。だが、韓非子のシステムが依存する『老子』の思想は宗教ではない(道教はこの当時まだないし、道教が積極的な社会道徳を作ることはありえない)。『韓非子』はシステムだけ語って、人になすべきこととそのなすべき理由を語らないのである。そこに穴がある。そして穴を埋めることができず、短期間の栄光の後儒教に敗れ去った。
秦が滅んで漢が興った後も、儒教の巻き返しが成功していたわけではない。漢初、儒者叔孫通(しゅくそんとう)によって宮廷礼儀が制定されたのが国家への食い込みに成功した第一歩であった。だが、呂后時代はおおむね無為の政治が行われ、次の文帝は「刑名の学」つまり法家を好み、次の景帝の時代には儒者は登用されなくなった(『史記』儒林列伝)。儒者は単なる儀式のお飾り程度だったのである。
司馬遷によると、彼の生きた前漢武帝の時代にはまだ儒・墨・名・陰陽・道・法の各派が並立していたようである。司馬遷は儒教のことを、「博大であるが要点はすくなく、労しても功はすくない。それゆえに、全面的にはしたがいがたいが、君臣・父子の秩序を序列している点は、易(か)えることができない」(『史記』大公史自序)と評している。この「君臣・父子の秩序を序列している点は、易(か)えることができない」という評価は、実は法家に対する司馬遷の評価とほとんど同じである。つまり、儒・法の本質は同じで、策が違うだけだと司馬遷は考えていたのだ。法家が人間の能力の有限性を見据えて公正と能率を確保する「法」を重視したという視点は、もはや司馬遷にはない。法家の敗北はもう始まっていた。そして武帝が公孫弘(こうそんこう)の建言を容れて儒教を正式に国家の正統としたときも、それは単に諸派のひとつを国家イデオロギーとしてたまたま採用しただけであったのかもしれない。だが、董仲舒(とうちゅうじょ)の独創的な儒教解釈の貢献もあったとはいえ、何よりもそれが大陸の地生えの「善」感覚に合致することが次第に見出されていったとき、儒教の地位はゆるぎないものとなった。有力な儒者が次々と出現し、ついに儒教マニアの王莽(おうもう)が現れるに至る。それと並行して法家は顧みられなくなり、やがて死んだ。老子=韓非子的な統治思想は(少なくとも表面的には)一掃されるに至った。『老子』の思想は社会思想的な含みを失って社会に背を向けた個人の慰みになるか、あるいは呪術的な民間信仰に退廃するかしていったのである。一方儒教は仏教や道教に一時押され気味となりながら、大陸のエリートたちが自分たちの自生えの思想を渇望したときに結局唯一戻るべき所として見出され、唐・宋・明と時代が下るにつれてますます盛況となっていったのである。
韓非子の思想は、それを単なる統治システム論として見るならば精密である。だがその内には結局上のようにあまりにも素朴で甘い点が内包されている。政治と個人の道徳を分離するための宗教的基礎を作りえなかった古代中国では、韓非子は残念ながら必敗であった。そうして彼の思想は捨てられ嘲られる不名誉な運命となった。私も韓非子に対して遺憾な思いが大いにあるが、彼の思想そのものにも敗北の原因がある。個々の共同体を超えた法による「帝国」統治の粋であったローマ帝国も、その担い手の為政者たちはストア哲学を求め、民衆にはキリスト教が広まっていった。「法」だけでは人間は生きる指針が持てずに「善」を求めていったのである。
成功する政体は、孟子と韓非子の両方を同時に達成してしまうものなのだろう。イギリス革命を経て産業革命がスタートし、いちはやく自由主義的な法制度の優位が確立していった十九世紀初頭のイギリスで、その将軍の役職にあるネルソンがフランス艦隊を大破したトラファルガルの戦いで、"Thank God I have done my duty"(神よ、私が義務を果たせたことを感謝します)と言って死ぬのである。法の命じるところだけでは動いていない。孟子の理想を達成した稀有な例であると思われる戦前の日本で、伊藤博文、桂太郎、金子堅太郎、高橋是清、小村寿太郎らはロシアと戦い、そして深入りしないための現実外交を淡々と行ったのである。大和魂だけでは動いていない。逆に、成功しない政体では、片方どころか両方ともおそらく達成できまい。ヨーロッパの韓非子とでもいうべきマキャベリを生んだルネサンスのイタリアはその後長い停滞に陥り、ピューリタンの狂信が荒れ狂った北部ヨーロッパは結局繁栄したのである。
それらを決定するのは、おそらく福澤諭吉の言う「天下の形勢、国民の気風」しだいなのであろう。もっといえば、それは「天」なのかもしれない。
(2005.10.06)