本章で言う春秋の五覇について、誰を挙げるのかで少しく異同がある。斉の桓公と晋の文公については異論がない。この二名は「斉桓・晋文」とセットで言及されるし、『論語』でも孔子に並んで評されている。両者は中原諸国をまとめて周王室を(名目的とはいえ)尊重し、蛮族の楚を討伐した「尊王攘夷」の担い手であった。一方「斉桓・晋文」にとって討伐の対象であった楚から、後世に荘王が出た。楚の荘王は蛮族の王であるが、晋を破って中原諸国に介入し、強大な勢力を誇った。王が周王に「鼎の軽重を問う」(権威を疑う)故事を残したことで有名である。以上の三人については、マギレもなく五覇の中に数えられているようだ。しかし後の二人については宋の襄公(じょうこう)、秦の繆公(ぼくこう)、呉王闔閭(こうりょ)あるいはその子の夫差(ふさ)、越王勾践(こうせん)が候補としてあって一致しない。とにもかくにも、「まがりなりにも天下に秩序を示そうとした五人の君主たち」という意味合いで列挙されているのである。
『孟子』の注では、本章における五覇は斉の桓公、晋の文公、楚の荘王に加えて宋の襄公、秦の繆公とされている。これは『春秋』の基準に沿ったものである。五人を年代順に並べると、まず斉の桓公の覇業時代が来る。次に宋の襄公、晋の文公の覇業時代が続く。秦の繆公の在位期間は三十九年と長く、斉の桓公の治世末期から晋の文公の死後までに渡っている。その繆公の死後に、楚の荘王が即位する。
宋の襄公は、斉の桓公死後に起った内紛を治める実を示して以降、桓公のごとき覇者を夢見て諸侯を集めて会盟を行ったりした。しかし強国の楚に捕らえられるなど実力が伴わず、その楚を討伐する戦いでは義戦を貫いて渡河中の敵軍を討たずに正々堂々と布陣して、結果敗れた。その敗戦の時の傷が元で死んだのである。身のほど知らずの情け心を揶揄した「宋襄の仁」という故事成語を後世に残している。また秦の繆公は、例の百里奚(ひゃくりけい)を側近として、東の晋に勝利して西の蛮族に対しては覇者となった。その功績は周王も認めるものであったが、しかし中原諸国の覇者とはなれなかった。このように宋の襄公も秦の繆公も、覇者というには物足りない。それでも『春秋』で数えられているのは、儒家的価値観の表れであろう。
さて、本章もまた孟子の常の主張と変わらず、周代の想定された秩序を理想として後の時代を論難するものである。だが述べられている周代の秩序が本当に実効あるものとしてあったのかどうかは、どうも怪しい。むしろ現代を批判するために過去の時代を再構成した、ユートピア的制度と言ったほうがよいのかもしれない。その時代から見て罪人であると断じられる覇者の桓公であるが、彼が盟主として行なった会の盟約は、いわば条約による国際法と言える。その中には各国間の互恵的な便宜のみならず、国内の体制に関する法令までが含まれている。これだけ内政に突っ込んだ法令を各国に遵守させるためには、盟主の権威と実力が卓越したものでなくてはならないだろう。だがそのような盟主の威令は長続きしなかった。その後の時代にも戦争は絶え間なく繰り返され、覇者もまた相次いで現れたのである。そして戦国時代になると覇者が各国の盟主となる慣例もすたれ、各国が実力で敵国を倒そうとする時代となった。
孟子はそんな時代の君主への処方箋として、「大事なのは仁義、それだけです」(梁恵王章句上、一)と説く。君主にとって大事なのは、富国強兵ではない。むしろわずか百里四方の国土しかなくても、君主が仁政を行なえば「仁者は無敵」となると言うのである(梁恵王章句上、五)。なぜならば、この乱世において天下の人民は仁君を待ち望んでいるからであって、ひとたび君主が仁政を行なえば殷の湯王や周の文王のように、世の君子も人民もどんどん集まってくるからである。「仁義の道を得ている者には助けが多い。一方仁義の道を失った者には助けが少ない。助けが少なくなった極みには、親戚までもが離反する。一方助けが多くなった極みには、天下までもが従う。天下が従う者が、親戚までも離反する者を攻める。必勝だ」(公孫丑章句下、一)。このように君主の大きな仁義の心が必ず人をひきつけて最後には勝利するというのが、孟子の仁政論のシナリオであった。
そのように君主の仁義の政治に理想を見出す孟子であるから、「桓公は斉国の強大な実力が背景にあったからこそ、各国に法令を遵守させることができたのだ」というな視点を取るわけがない。桓公が取り決めた盟約の内容だけに注目して、それを遵守させた権威と勢力を見ようとしない。それは、法家の完全な裏返しである。法家は、天下を統治する力の根源に「
富と位と権威と勢力」しか見ない。桓公よりももっと強大な権威と勢力によって永続的に法を遵守させるのが、天下を治める唯一の方法である ― これが、韓非らの法家の結論であった。
それにしても古代中国思想は、どうして孟子のような理想ばかり並べる現実無視の議論と、法家のような現実一辺倒の議論に分裂してしまったのであろうか。海のように数が多くて度し難い程に抜け目のない大陸の人民は、日本やドイツのような素直な国民などよりももっともっと露骨な暴力を用いなければ統治できなかった現実があったのかもしれない。その背筋も凍るような現実をあえて見つめようとすれば法家が選ばれ、人間として権力の暴虐を少しも認めたくないと思えば儒家が選ばれる。それが、古代中国社会だったのだろうか。「いったんは暴力で統一権力を作らなければならないにしても、その後は素直な人民が従うままに仁政を行なうべきだ」といった考えはしょせん日本史的な甘い視点であって、大陸では通用しないものだったのであろうか?
《次回は告子章句下、八》
(2006.03.02)