これは、燕王が宰相の子之(しし)に王位を譲渡するという事件が勃発し、それを不義であるとして斉が介入の軍を起こした時期の問答である(BC314?)。これを司馬遷は宣王の次代の湣王(びんおう、「びん」はさんずいへんの右に民+日)のやったことだとしていて、『孟子』の記述と合わない。おそらく、『孟子』の記述の方が正しくて司馬遷は資料の整理ミスで王の在位年数を誤ったのであろう(宣王とビン王は同一人物の「ビン宣王」であるという考証が平セ隆郎氏によって提出されている。公孫丑章句下、八の囲み記事を参照)。
孟子はこの軍事行動の前に、斉の家臣の沈同(しんどう)に「勝手に家臣に王位を譲る無道な燕は討つべきだ」と主張している(公孫丑章句下、八)。沈同は先生のお墨付きを得て勇躍燕征伐に動き、この章で書いているように大勝利したわけである。そこで宣王と孟子のやりとりになるわけだが、孟子は宣王が「こんなにうまくいったから、これは天意だ。併合したい」と言うのに対して、人民の声が天の声であるといって諌める。独り合点を押さえる倫理的根拠は人民の声、つまり地上の他人の声にしかない。「他人に配慮する」心から倫理を構築する孟子は、当然この章のように言うのである。
宣王の積極的軍事行動は裏目に出て、次章で見るように結局燕併合をあきらめて撤退するしかなかった。その上、燕に遺恨を残したために湣王(びんおう)の代になって明主昭王(しょうおう)と名将楽毅(がっき)のコンビが率いる燕軍の逆襲に会うことになる。斉は国都の臨湽(りんし。「し」はさんずいへんの右に巛+田)も陥落し、領土のほとんどを占領されてしまった。もしそのまま順調に行ったならば、斉は滅亡していたかもしれない。だが燕の昭王は戦役の中途で死に、それを継いだ次代の恵王(けいおう)は楽毅を信じずに解任する愚挙を行ったのである。楽毅は誅罰を恐れて趙に亡命してしまった。ところが恵王に楽毅への猜疑心を起こさせたのも、今度は斉の名将田単(でんたん)の離間策であった。田単は世に言う火牛の計(かぎゅうのけい。集めた千余頭の牛の角に刀をつけて尾に火のついた松明をくくりつけ、敵に向けて暴走させた作戦)を使って楽毅のいない燕軍を大破し、その勢いで斉の領土をすっかり取り戻した。名将と名将の痛み分けであった。
だが、一時的に西の秦とともに「帝」を称するほどの勢いであった斉は、この戦役以降ふるわなくなる。結果的に秦の一人勝ちの時代へと移行していくのであった。
この宣王と孟子の時代から二百年ほど後の司馬遷は、斉についてこう書いている。
わたしは斉に遊んだが、西は泰山から東は琅邪(ろうや)まで、北は海にいたるまで、肥沃な土壌が二千里にわたってつづいている。その人民が闊達で、深く智恵を蔵しているものがおおいのは、風土による天性である。国祖の太公望呂尚は、その聖徳をもって国本をつちかった。桓公の盛時には善政をおさめ、諸侯の会盟をつかさどって覇者と称したが、当然のことである。斉は洋々として広大、まことに大国の風ありというべきである。
(『史記』斉太公世家より、吉田光邦氏訳)
まるでR.W.エマソン Ralph Waldo Emerson が19世紀半ばの国力ますます盛んなイギリスの姿を表現したのにも近い観察である(『イギリスの特性』 、原題"English traits")。土地は豊か、人民は闊達で聡明なのに、なぜ斉は天下を取れなかったのだろうか?
儒者の答えは分かりきっている。梁恵王章句上、三にその全てが書かれている。仁義の道に依らずして、仁政を行わずして天下を取ろうというのは、『猶(な)お木に縁(よ)りて魚を求むがごとし』なのだ。斉の歴代の王たちはそれをしなかったからだ。だが、これは儒者の「歴史観」である。人の世はかくあるべしという主張はそれとして尊重しなければならないが、現実の国が「まちがったことをしたから滅んだ」などとは断言できない。その原因は歴史の現実じたいによって検証しなければならない。そしてこれは非常に難しい作業のはずだ。マックス・ウェーバー Max Weber は言う。
現実を論理的な意味での理念型に、論理的に比較する態度でもって、関係させることと、理想から現実を評価的に判定することとを、はっきりと区別することは、学問的な自制の基本的な義務であるとともに、詭弁をふせぐためのただ一つの手段でもある。
(『社会科学および社会政策の認識の「客観性」』 出口勇蔵訳、より)
理念型(Idealtypus)は主観的に現実を捉えたフィクションにすぎないが、それは「理想」とははっきりと区別され、学者は細心の注意で理念型を抽出して、その連関を論理的に構成して現実への妥当性を探らなければならない。そうでないものは「主張」であって、「科学」ではない。
だから、「斉がなぜ天下を取れなかったのか」という問題に歴史学者でもない私が何か言っても、科学でも何でもない印象批評にすぎない。そしてこの『孟子を読む』シリーズは科学でも何でもない私の印象批評なので、その限りでものを言うことにする。
太田幸雄氏は、容易に答えが出せないと断りながらも、斉が秦に制せられた原因の一つとして国家の仕組みの違いを指摘している(学研『歴史群像シリーズ44、秦始皇帝』)。すなわち秦は戦国初期の商鞅(しょうおう)の断行した変法の結果として、非血縁者の家臣団との強い君臣関係が作られて中央集権体制が確立した。一方斉は王族の田氏が権力の全てを支配する同族会社のようなもので、血縁のあやふやなつながりで国が運営されていた。そのため時代が下れば下るほど王族がめいめい勝手な行動を取ることをだんだん押さえられなくなっていった。その例が孟嘗君(もうしょうくん)である。彼は斉の王族なのに半独立君主気取りで、斉王の威令にも従わず勝手に他国と外交して自領を保持していたのである。『史記』などに書かれている孟嘗君と馮驩(ふうかん)の君臣コンビのエピソードはそれ自体では大変味わいのある話だが、斉国経営の立場から見れば言語道断の独断専行である。
ならば、結局孟子の理想とする「身内への愛を周囲にも及ぼす」仁政のあり方が、身内という頼むべからざる者を頼みにした結果斉を解体させたということになってしまう。これは困った。やはり、権力の「能率的な」部分をおろそかにする儒教は、それだけでは国家を現実に強くしないのだろうか。おそらくそうであろう。孟子の「仁者無敵」論は一定の限界があるものとして、現代人は読むべきなのだろう。
だが、孟子の儒教が「他人に配慮する」心から倫理体系を構築していく限り、身近な社会に正義を求める倫理は必ずもっと大きな社会としての国家全体に正義を求める倫理まで拡大していかざるをえないのである(離婁章句上、十一)。キリスト教のように個人の倫理と天下国家の倫理とを分離する方向には向いようがない。(宗教改革以降の)キリスト教は神の人間へのあわれみと人間の神への愛の相互往来が倫理の枢要だから、例えばロビンソン・クルーソーのように無人島で一人でも、火星の上で一人だけいても成り立つ倫理である。この問題は、後にもっと詳しく検討したい。
(2005.09.26)