公孫丑章句下
十四
孟子去齊居休、公孫丑問曰、住而不受祿、古之道乎、曰、非也、於崇吾得見王、退而有去志、不欲變、故不受也、繼而有師命、不可以請、久於齊、非我志也。
孟子は斉を去って、休(きゅう。山東省)に滞在していた。公孫丑が質問した。
公孫丑「仕官しながら禄を受けないというのは、いにしえの道だったのですか?」
孟子「いや、そうではない。じつは崇(すう)で斉王に始めて会見したときから、(おそらくこの王は仁君たりえないと見切って)立ち去ることを考えていた。嘘をつくのがいやで、禄を受けなかったのだ。そのうち戦争が起こって、役目を拝命した。もはやこうなれば暇乞いもできなかった。長らく斉にいたのは、余の志ではなかった。」
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結局孟子も、実は柳下恵のような進退をしていたということである。いわゆる「情がらみでなかなか抜けられなかった」という事情だ。すっぱりと切れる決断は大事だが、大先生もなかなかそうはいかなかったということか。
これまで見たように斉王に対して強く出ることができたのも、禄をもらっていなかったからでもあるのだろう。たぶん諸侯や大夫たちから顧問料などいろいろ付け届けもあっただろうだから、所得には不自由しなかったということか。本章句下、三でもあったが孟子の当時からほとんど近代に至るまで、中国の士大夫は必要経費だと自分でみなせば付け届けなどは気にせずもらっていたようだ。中国歴代王朝の官僚への給与は非常に安かったという。といって彼らが薄給で働く清廉の士だったわけでは全くなく、官職に伴う役得や地方長官に就任して入ってくる付け届け等等によって正式の給与が小さく見えるほどがっぽり収入があったのだ。結局伝統中国の官僚組織は人材を中央に引き付けて王朝と一蓮托生にさせるのが主な機能であって、仕事を効果的に行なうための合理的システムではなかったのである。だから中国一省の人口にも満たない満州族に明朝の軍官行政組織は手もなく敗れたし、アヘン戦争などで清軍はイギリス他に全くまともな戦闘ができなかった。袁崇煥(? - AD1630)や林則徐(1785 - 1850)など、個々に優秀な官僚・武人はいた。だが組織の力とならなかったのである。
もちろん「自分で費用と思えば、付け届けの授受もOK」などという論理、現代社会では通じない。だから仕事のできる人物は正式な報酬をうんともらってあたりまえだ、という発想がだんだん主流になってくる。そうかもしれない。だがそれならば、彼らはすでに金銭で報われているのだから、その上さらに社会が名誉を与える必要はないことになる。発達した社会の平衡感覚は、勝者にそこまで気前良くないと思われる。そうすれば勝者もまた名誉を求めるインセンティヴが働かなくなってくるだろう。名誉への渇望なくして、まともなエリートが育つのだろうか?少々疑問である。
本章で公孫丑章句は終わる。次の滕文公章句は梁恵王章句でも出てきた滕の文公と孟子の関わりに始まり、そこで出会った墨家との論争などが置かれる。小国滕の文公のドンキホーテ的な行動が少々物悲しい。儒家の主張する「井田制」の詳論の部分などはコメント抜きに流していきたい。
次章句に入る前に、最後にこれまで見たところから導かれる儒教の「よき人」像というものが、日本人の伝統的な視点からはどのように見られるであろうかという点を少々検討してみたい。日本人の視点は、儒教がおそらく想定しているであろう「よき人」観と微妙に、だがおそらく重大にずれているのではないかと私は思うのである。
(2005.11.18)