離婁章句上
二十七
孟子曰、仁之實、事親是也、義之實、從兄是也、智之實、知斯二者弗去是也、禮之實、節文斯二者是也、樂之實、樂斯二者、樂則生矣、生則惡可已也、惡可已也、則不知足之踏之手之舞之。
孟子は言う。
「仁とは煎じ詰めれば、親に仕えることだ。義とは煎じ詰めれば、兄に仕えることだ。智とは煎じ詰めれば、この二つが大事なことを理解して決して忘れないことだ。礼とは煎じ詰めれば、親への仕え方と兄への仕え方をきちんと使い分けることだ。そして楽とは煎じ詰めれば、これらを楽しく行うことだ。楽しく行えば、自然に目上を敬う心が育ってくる。心が育てば、もうどうにも止まらない。どうにも止まらなければ、いつのまにか手が舞って足がステップを踏みながら仕えるようになるのだ。」 |
仁・義・礼・智の徳の「實」(エッセンス)を親と兄への関係で捉えた章である。本章で繰り返し述べられた、身近なものへの情愛からだんだんに広げていって社会倫理を構築する倫理体系を再説している。告子章句下、二では別の要約として、「尭舜の道とは、悌(てい。長幼の序)と孝だけです」とも言っているが、全て同じである。
面白いのは、仁・義・礼・智の徳を楽しんで行なう装置として、楽すなわち音楽を指摘していることだ。音楽という理性外の装置で倫理感を高める効果を述べている。荻生徂徠も強調する、制度としての礼楽である。
おそらくここで指摘されている音楽のような理性外に訴えて感化させる倫理的装置については、現在も学問研究の闇の部分なのであろう。儒教は礼楽という形でこれをはっきり指定する。他の宗教も必ず明示的に、あるいは暗黙のうちに何らかの催眠術的効果をもたらす装置を作っているはずだ。現代の宗教であるファシズムやコミュニズムやナショナリズムも同様に、理性外に訴える装置を用意しているのは明白なことだ。
紫禁城に代表される中華帝国の宮城の大げささは、ただただ百官・人民・外国使節を仰天させて威圧するのが唯一の目的である。ビザンチン帝国やローマ教会の巨大寺院も同様の目的だし、ヴェルサイユ宮殿はまさしくフランス王家の実力を見せびらかすための建築である。大坂城や江戸城も全く同じ。アステカ帝国のいけにえの華麗で残虐な儀式もまたそうだし、ナチスの党大会は本来自由であるはずの近代的人間を統制する姿を見せて強烈な意志と破壊力を示す効果を出す。これらは人間に無限の権力を予感させるための視覚的装置である。
音楽ならば、「ラ・マルセイエーズ」や「インターナショナル」が、どれだけ世界各地の革命の促進に役立ったかは計り知れない。「世界に冠たるドイツ」や「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」などのナショナル・アンセムは、凡百の煽動家の言葉よりも格段にナショナリズムを煽ることに成功した。早稲田・慶應両大学の校歌(応援歌)や、阪神タイガースの応援歌には、確かに連帯心を煽る催眠術的効果がある。
おそらく視覚・聴覚に加えて薬物を使えば、大衆の一元的支配をかなりのところまで成功する方法があるのかもしれない。それに関する研究は、おそらくやってもあまり意味がないのでやられていないだけで、もしその必要が起れば短期間で法則が見出せるのかもしれない。それとも、人間にはそのような感覚を通じたコントロールからすり抜けることができるような、自由への超感覚が存在するのだろうか。全くわからない。
《次回は離婁章句上、二十八》
(2005.12.29)