盡心章句上
三
孟子曰、求則得之、舎則失之、是求有益於得也、求在我者也、求之有道、得之有命、是求無益於得也、求在外者也。
孟子は言う。
「求めれば必ず得られるが、捨てればなくなってしまうものがある。そういうものが、求めて得るのに益あるものなのだ。自分の中に求めるからだ。求める方法はあるが、得られるかどうかは運によるものもある。そういうものは、実は求めて得るのに益ないものなのだ。外物に求めるからだ。」
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ストア哲学者の主張と全く同じ。偶然の幸不幸に左右されない徳こそが、人間が真に求めるべきものであり、それだけに依存することが幸福な生を得る道なのである。心の中にある「天爵」は人間ならば求めればいつでも得ることができるが、外物はそうではない。だから「天爵」の方が貴くて、人間はこれを求めて伸ばすことを第一義としなければならないと言うのである。ローマ皇帝でストア哲学に傾倒したマルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius Antoninus, 121 - 180)の手記が、後世残されている。その中にいわく、
物事というのはそれ自体としては、魂に触れることはないどころか魂に近づくことすらできない。それどころか、それ自体の力で魂に影響を与えて動かすこともできないのだ。というのは、魂に影響を与えて動かすことのできるのは、他ならぬ魂自体でしかないからなのだ。つまり、物事が魂と共存している姿は、魂が自らにふさわしいとみなした教理なり意見に従って、魂の飾りものとして身に付けているようなものなのだ。
この世で最も上位にあって最も力あるものを崇めるのだ。それはすなわち万物を作り支配するものである。同様に、あなたの心の中にある最も上位にあって最も力あるものを崇めよ。それは、さっき私が言及したものと同種で同質なものから成っているのだ。というのは、両者は全く同じものだからだ。それはあなたの中にあり、万物はそれが利用するために向けられ、そしてそれによってあなたの人生は統治されているのだ。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第五章 Meditations, the 5th book より。英訳からの転訳)
ストア哲学は、キリスト教の教義に大いに用いられている。自分の中にある貴いものが、神から与えられた魂として解釈されるのである。古代中国思想においては、「天」を一神教的な神にまで発展させることはなかったのであるが。
(2006.03.10)