公孫丑章句下
十一
孟子去齊宿於晝、有欲爲留行者、坐而言、不應、隱几而臥、客不悦曰、弟子齊宿而後敢言、夫子臥而不聽、請勿復敢見矣、曰、坐、我明語子、昔者魯繆公無人乎子思之側、則不能安子思、泄柳申詳無人乎繆公之側、則不能安其身、子爲長者慮而不及子思、小絶長者乎、長者絶子乎。
孟子は斉を去り、斉都近郊の昼(ちゅう)に宿泊していた。斉王の意を受けて孟子一行を引きとめようとする者があって、会見に及んだ。対座してその旨を孟子に告げた。孟子は何も応えず、肘掛けにもたれて横になったままだった。客はムッとして言った、
客「それがしがこうしてつつしんでお話し申し上げているのに、先生は寝たまま聴こうともなさらん!もうだめだ、二度とお会いしません!」
孟子「『坐れい。余が明らかに君に語ろう』(儒教の塾で、先生が弟子に教えを垂れる時の決り文句であると思われる)。昔魯の繆公(ぼくこう)は、子思(しし。孔子の孫で、孟子の直系の師)のそばに誰かしかるべき人をつけなければ、子思を引き止められるかどうかと心配でならなかった。また賢者の泄柳(せつりゅう)と申詳(しんしょう)は、繆公のそばに(子思のような)しかるべき人がいなければ、心配でならなかった。君は、この老体のために配慮するところたるや子思の時代の例に及ばない。今、君がこの老体を見捨てようとしているのか、それともこの老体が君を見捨てようとしているのか?」
|
斉を去ろうとする孟子が、斉王から派遣された客に対して、礼が足りないから追い返したというエピソードである。本章句下、二と同じく、王といえども誠実さに欠ける対応をするならば応じないという断固たる態度がよく現れている。結局斉王の引き止めはここまでで、次章で孟子は斉から去ってしまう。それでも自分を低く売りつけたりはしない。孟子がそれほどまでに有能な政治家たりえたのかという疑問はさておいて、自分の売り値を自分で設定しているからできる態度だ。これを偏狭すぎると思う人は、柳下恵のように生きればいいのである(公孫丑章句上、九参照)。孟子は柳下恵を慎みが足りないと評しているが、彼もまた「百世の師」だ(盡心章句下、十五)。全ては自分の「天爵」の使いようなのだろう。
たぶん、この客は大した身分の者ではなかったのかもしれない。そんなこともあって、孟子は斉王の礼の心を疑ってわざといいかげんな対応をした。儒教は礼の形式にうるさい。相手の誠意は、定められた礼の規則にいかに従っているかで判定される。外交では外交文書の形式や、外交官の接待の席次などが非常に重視されるのである。「内容にまごころがこもっていればいいんだ!」などというのは日本人的な勝手な思い込みである。言葉も通じず、文化のバックグラウンドも違う相手に形のはっきりしない「まごころ」は通じない。「形式を通じてまごころは伝わる。その形式を学ぶことが文明への参加資格である」というのが強固な信念となり続けてきた。そしてこのことが、西洋や日本と中国及び李氏朝鮮とのすれ違いの原因となった。
北東アジア世界において残念だったことは、せっかく地域でユニバーサルに通じる文化である儒教と仏教があったのに、知識人同士が足しげく往来して結果互いの良いところを交流させ合う機会があまりにも小さかったことである。西ヨーロッパでは、カトリック僧、托鉢修道士、神学生、国際結婚の結果としての廷臣たち、聖地巡礼者、そして商人やユダヤ人などが国際的に頻繁に往来していた。知識人から一般庶民まで、外国に出向いて外国人と交流する機会が非常に多かったのである。それに比べて北東アジアでは儒者も仏教僧も交流のきずなは微々たる物だった。それに中央集権指向が強いから有為の人材は王国の中枢にひきつけられがちで、結果国内的視点しか持たないエリートが国を指導する結果となる。商人の活動だけでは、文化の交流には限界がある。そういった伝統的傾向は現在でもなお引きずられていて、北東アジア諸国の外交関係をぎくしゃくしたものにしているようだ。
(2005.11.16)