ここで、孟子遊説の跡を地図で確認しておこう(地図の領土はおおまかなものです)。
『孟子』梁恵王の記述順序が正しいとするならば、孟子はまず上の地図の魏(梁)に行って、恵王に遊説した。
恵王が死去して次の襄王を恃むに足らずと見切ったため、次に斉に行った。斉の宣王関係のエピソードは多く、家臣とのやりとりも豊富に記載されているため、かなり長期間滞在したと思われる。しかも公孫丑章句下、六の記述では卿(けい。大臣)の職にある。相当高位の顧問だ(ただし給与は辞退していたようだが)。
斉を去った後のことがよくわからない。この梁恵王章句が孟子の遊説順序のままだとすると、孟子はこの章のように鄒(すう。孟子の故郷でもある)に向かい、その後で滕(とう)の文公の顧問になったということになる。だが滕文公章句各章の記載では、まだ太子時代だった文公が宋で孟子に会見して感銘を受けたとなっている。その後先代の定公(ていこう)が死に、その葬儀のやり方について鄒にいた孟子に使いをやってアドバイスを受けたことになっている。ということは孟子は一時期宋にいたことになる。だが、これが遊説のため赴いたのか、斉あたりの外交官として駐在していただけなのか、よくわからない。ところがさきほどの公孫丑章句下、六の記述では、孟子が斉の卿であったとき滕に弔問使の役で赴いた、とある。ここで死去した人物は、滕の定公とは別人の、そのまた先代の公なのであろうか。それとも、まだ斉の卿であったがたまたま故郷の鄒に戻っていた孟子に文公の使者が会いに行っただけなのだろうか。そしてその後すぐに孟子は斉を去り、一時的に鄒で相談役のようなことをした後、文公に招かれて滕に赴いたのであろうか。このへんが資料を充分参照していないこともあって、今ひとつよくわからない。それにあまり深く詮索する気にもならないので、私は梁恵王章句に従って、いちおう魏→斉→鄒→滕と孟子が遊説を行ったのは少なくとも確かだろうと考えて、それ以上の行跡は考証しないことにします。
本章は孟子の故郷、鄒(すう)の穆公(ぼくこう)との問答である。これまでの梁恵王・斉宣王は孟子の前で「寡人」(私は一貫して「小生」と訳しています)を一人称として用いていたが、この鄒穆公や次章から登場する滕文公は「吾」を用いている。大国と小国では論客を扱う姿勢がおのずから違ったのかもしれない。超大国の斉を捨てて弱小の鄒に戻ってきた孟子の姿勢は、だがこれまでと全く変わらない。自由な出処進退と、地位富貴などは浮雲のごときものとみなす不動の心が君子のあり方として孟子の姿勢の中に描かれている(現実の孟子がどうだったかは知る由もないが、少なくとも『孟子』の著者はそう表現している)。
[A wise man] does not need to walk about timidly or cautiously: for he possesses such self-confidence that he does not hesitate to go to meet fortune nor will he ever yield his position to her: nor has he any reason to fear her, because he considers not only slaves, property, and positions of honor, but also his body, his eyes, his hands,--everything which can make life dearer, even his very self, as among uncertain things, and lives as if he had borrowed them for his own use and was prepared to return them without sadness whenever claimed.(英語訳)
賢者はおどおどと慎重に歩んだりしない。なぜならば、彼は高い自信を持っているので、運命の荒波に出会うことにも躊躇しないし、運命に屈服することも決してない。また、賢者は運命を恐れない。なぜならば、彼は奴隷、財産、名誉ある地位を、さらには自分の身体、両の目、両の手を − つまり人生により愛着を持たせるあらゆるものを、いやそれどころか自分の命までを、不確実な借り物にすぎないと考えるからである。賢者はそれらを自分が使うために借りたものだと考え、要求があればいつでも悲しむこともなくお返しする用意を持っているのである。
(セネカ『心の平静について』 On tranquility of mind より)
セネカと孟子の比較は、また公孫丑章句あたりで行うことにしよう。本章のテーマに戻る。
これも一連の「偕(みな)と楽しむ」論の流れの続きだが、人民をなつかせればお国の危機に死んでくれるかどうかは、議論の分かれる所だろう。吉田松蔭は、この鄒穆公や次章以降の滕文公の話を幕末日本の危機に重ね合わせて悲憤慷慨している。人民と共に立ち上がり、命をかけて外国列強を打ち払うのだと。結局日本は鄒や滕どころか実は宣王の斉となる潜在力があって、そのようになっていくのであるが。これも福澤諭吉の言う「天下の形勢、国民の気風」というものなのであろう。とにかく、日本は孟子の理想が一時的にせよ達成された事例となる国であった。だがむしろ宣王の斉のような覇権国となりながらも、相変わらず滕のような被害者意識を抱え続け、あげくの果てに弱者意識を持って強大な武力を振り回すゆがんだ世界政策を断行していったところに、日本の悲惨があった。
私は軍事の専門家でもないし、戦史マニアとでもいうほどのものでもないが、中国での名将たちの戦い方を見るとあまり兵卒の志気に多くを期待していないような印象がある。韓信の「背水の陣」しかり、曹操の戦い方しかりで、名誉心などない兵卒は食糧と恐怖心をパラメーターとして反応する生きた兵器にすぎないと割り切っているのが中国流兵法なのではないか。
一方ナポレオンやドイツ軍、あるいは(戦前の)日本軍などは兵の志気で困難を乗り切るケースが多く見られ、時にそれに過剰に依存して対策を怠り敗れることもまた見られる。第一次大戦でのドイツ歩兵の行軍スピードには目を見張るものがあるし、日本軍もまた歩兵の脚力と人力の運搬力に大きく依存していた。日本の戦国時代でいえば、羽柴秀吉は足軽の脚力で賤ヶ岳の戦いの決着をつけたようなものだし、第二次大戦後ならばベトナム軍は人力で大砲を高地に持ち上げてディエンビィエンフーの戦いに勝利した。
だから孟子の言うように人民の士気が戦いで頼りになるかどうかは、「天下の形勢、国民の気風」の関数なのだろう。少なくとも孟子の主張は彼以降の時代の中国の軍事には適用できかねたもののようだ。
(2005.09.28)