「孟母三遷の教え」「孟母断機の教え」の説話で有名な孟子の母が死んだときの話である。
「君子は天下のためといって、その親にケチったりはしない。」
なぜか。それは、親を大事にすることが人間倫理として正しい道であると儒教は固く主張するからである。これまで見たように、君臣の関係は儒教にとって双務的なものだ。しかし親や兄弟との関係は人間にとって最も近い他者であるため、その愛は最も強いものでなければならないのだ。
離婁章句上、十九にいわく、「事(つか)えること孰(いず)れか大なりとす、親に事(つか)えることを大なりとす。」
同、二十七にいわく、「仁の実は親に事(つか)えること是なり。義の実は兄に従う是なり。」
盡心章句上、四十五にいわく、「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す。」
倫理の基礎として身近な肉親への配慮から始めよ、という教えが何度も繰り返されている。
だから、親や兄弟を愛さない者はそもそも人間として間違っているわけで、そのような者が人の上に立つこと自体が間違っているということになるだろう。「大義、親を滅す」のような倫理は本末転倒なのである。儒教は個人倫理から社会倫理を組み立てる教義である。離婁章句上、五にいわく、「天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り。」 この自分から始まって段階的に広がっていく配慮の構造が儒教倫理の基礎である。
盡心章句上、三十五で驚くべき論議がなされている。舜が天子で、名臣の皋陶(こうよう)が司法官のときに、父の瞽瞍(こそう。ソウは、めへんに叟。以下「瞽ソウ」とする)が殺人を犯したならば、舜はどのような行動を取るのか?という問いに対して、孟子は「天子の職を投げ打って、父を背負って逃げ隠れるだろう」と答える。孟子はここで、全体のために個人の倫理をなおざりにするような道を許さないのである。その裏返しが、「天子は天下一富貴な存在だから、親や兄弟を天下一優遇する」という主張である(萬章章句上、三及び四参照)。ネポチズムを正面から肯定する、現代人の目から見ていかにも異様な結論となる(ただし、天下の法を曲げてでも身内をひいきすることは、決して許されない。それすら守られないことが古今東西に多すぎるが)。
「なぜこのように融通がきかないのか?」
― その疑問を孟子に投げかける者は、逆にこう問い返されるだろう。
「なぜ状況に応じて倫理観を変えるのか?あなたの原則は何なのか?」
「そりゃあ、もっと大きな世間のほうが大事だろうが。」
「世間とは何だ?個人の集まりではないか。各人が個人の倫理を曲げて、その総和でよい社会ができるのか?」
「なに言ってるんだ、人は他人のために生きるのが正しい道だろうが。あなただって常々そう主張してるじゃないか。」
「そう言っているあなたは身の周りの人を不幸にしていないか?口だけ国のため、世界のため、地球環境のためなどと言っておきながら、実際あなたは何をしている?身の周りの人を幸せにできず、その上大きな世界にも大したことができていない。結局あなたは他人になにもできていないのだ。気休めで天下のことを言うでない。天下のために本当に仕事ができるのは、しかるべき地位に着いている君子だからこそできるのだ。身の程を知れ。身近な他者を幸せにするところから始めろ。そしてできるならば努力して君子をめざせ。君子は身の周りの人も天下のことも共に配慮できる存在なのだ。」
現代人と孟子の問答を仮想すると、上のようなものだろうか。古代中国では、「天上の絶対神による地上の人間への命令」という倫理観が十分育たなかった。それゆえ倫理の原則は地上の人間から導出しなければならない。孟子が親兄弟への愛を人間に取って犯すべからざる倫理としてかくも強調するのは、倫理とはどういうものなのかを典型的に表しているのだ。己の都合による勝手な態度変更を許す倫理は、倫理と言えない。そういう信念が、孟子のような思想家にはあるに違いない。
では、日本人に倫理はないのか?いや、あるはずだ。
日本人は個人が世間のために一歩引いてガマンすることによって、社会が調和すると固く信じている(はずだ)。前にも議論したが、日本人はおそらく「個」が成立していて、しかも自分の中に善を見出せないから、自分以外の世間への配慮に善を見出して安心する心の構造となっているはずだ。言い換えれば日本人にとっては世間が倫理の基準となる。世間に愛されることを渇望し、かつ逆らうことに心底からの恐怖を覚えるのが、日本人なのであろう。一神教の「神」の位置に、日本人は「世間」があるに違いない。地上の人間への配慮を倫理の基礎に置く点では孟子の儒教と方向性は同じだが、ただ視野に置く範囲と濃淡が違う。
だから、日本人は大いにボランティア活動ができる。見知らぬ人間に惻隠の情を及ぼすことができるからだ。君主でも何でもない、普通の人が!
だから、自分とは関係ない所で起こった殺人事件などでも羞悪の心が爆発して、国中で興奮する。その憤激はとどまるところを知らず、ついに犯人の周りの親類が世間に懺悔するのである。懺悔させる社会と懺悔する親類の両者の心の中に、世間という審判者が忍び込んでいる。
だから、日本人は会社を退職すると、回りに誰もいなくなる。身近な存在への情よりも大きな組織への配慮に皆が気を取られて生涯を過ごすからだ。日本人は本来的に地上の他人に目が向いているので、その孤独は耐えがたいものになる。
・・・
孟子の活動していた戦国時代は、一部の階層ではあったが「個」の意識が芽生えていた時代だったろうと私は書いた。その状況で、天下への利他心を倫理の基礎に置いたのが墨子の思想であった。墨子の思想は、現代日本人と同型の倫理観を教義として固めたものと解釈できるのではないか。その教義の内容は、利己心を徹底的に責め立てる極めて厳しいものであった。孟子の儒家は、墨家教団の大きな運動と対決しなくてはならなかった。それはエリートの自意識を守るための戦いであったのだろう。「君子の判断は自己の中の善に基づいてなされるべきで、全体の事情にひきずられるべきでない。」そのために、身の周りの他者から段階的に配慮を及ぼす、という伝統的な倫理観を固く守った。そしてそれは、墨家教団から見れば卑怯なブルジョア根性に映った。現代も古代も、人の考えのパターンはどうやら変わらないようだ。
こういった日本人のメンタリティーは、おそらく武家社会が成立した時代から明確に現れ始めたと私は思う。だが、もっと古い時代の日本人の古層にも、その萌芽的なものが求められるのかもしれない。試みに、古代神話を見てみよう。
『古事記』のアマテラスとスサノヲの神話を読むと、奇妙に感じることがある。スサノヲが高天原で狼藉を働いてやりたい放題していたときに、彼の親神は何をしていたのか?
アマテラスとスサノヲノミコトの父神は、イザナギノミコト。イザナギノミコトはアマテラスに天を治めるように命じ、スサノヲノミコトには海を治めるように命じた。だがスサノヲノミコトは死んだ母神イザナミを恋して黄泉の国に行きたいと駄々をこねる。そこでイザナギは怒って息子を父の下から追い払ってしまった。だが、イザナギの出番はこれで終わりである。この後、神話からはその後のスサノヲの悪行を懲罰する威厳的存在がいなくなってしまうのである。アマテラスは受身の存在で、スサノヲノミコトを懲罰せずに天の岩戸に隠れてしまう。これでは悪の勝利ではないか。
それを救ったのは、結局神々の「話し合い」である。「話し合い」の結果として岩戸開きの計略が行なわれ、そして「話し合い」の結果、集団的総意としてスサノヲノミコトに罰が下される。聖書ならば必ず神の介入によって解決されるに違いない事件が、威厳的存在なしに全体の力で解決されてしまうのだ。カインに弟殺しの罪を知らしめ、ノアを導き、アブラハムの前に現れた全能の神の説話となんと違うのであろうか。
後に進んで、ホデリ(海幸)とホホデミ(山幸)の話を見てみよう。兄弟の争いの最中、やはり父神のニニギノミコトは一切登場しない。そして海神の娘トヨタマヒメの援助によってホホデミは兄のホデリを懲罰する。ホデリはホホデミへの臣従を誓い、トヨタマヒメと結ばれたホホデミが皇統を継いで、めでたしめでたしとなる。だが、ちょっとここで一歩引いて考えよう。父神のニニギノミコトから見て、これは弟の勝手な下克上なのではないか?弟が父神の意見も聞かずに皇統を奪っているのである。これは許されることであろうか?「ホデリはつむじまがりの悪い奴だから、皇統を奪われて当然だ」と言うかもしれない。だが、その善悪の判断を下す者は誰だ?ホホデミの窮地を見かねて海神の所に送ったシオツチである。海神とその娘トヨタマヒメである。これらの世間の他人が、家庭内の事情に善悪の判断を下している。
このように、日本神話は巧妙に父神の権威が抹消されていることに気付く。威厳ある存在であるべき父がいないのである。父(あるいは神)の替わりに倫理の中心として置かれるのが、「話し合い」による集団的総意であり世間の他人になっているのである。
一方聖書ではどうか。『創世記』の中で、重大な下克上のケースが二回出てくる。一回目はアブラハムの長子イシマエルを差し置いて次子イサクが嫡男とされたケース。二回目はイサクの長子エサウを差し置いて次子ヤコブが嫡男とされたケースである。イシマエルとイサクの場合、兄は奴隷ハガルの子でイサクは本妻サラの子である。アブラハムは神のおぼしめし通り本妻の産んだ弟のイサクを後継者とした。これは別に神の啓示がなかったとしても、地上の論理だけで一応納得いく選択だろう。しかしエサウとヤコブの場合、両者は双子の兄弟である。年老いて盲目となったイサクはエサウを後継者にしようと、狩の獲物を持ってきて死ぬ前に食べさせてくれと息子に言った。それを聞いた母レベッカは愛する次男ヤコブのために、こっそり彼に父の意を教えて出し抜くように言った。ヤコブはエサウのふりをして父に肉を与え、父の祝福を受けて地を受け継ぐ後継者とされたという。その後にエサウがやってきてイサクは真実を知ったが、イサクは「もう祝福はヤコブに与えたのでくつがえせない」と言って、以降エサウはヤコブのしもべとなるように命じたのである。こうして父の命により下克上が確定したと描かれている。その後納得いかないエサウはヤコブと戦おうとするが、すでに神の祝福はヤコブに下ってしまうので、どうにもならない。結局イサクがヤコブを祝福したのも、神の思し召しのうちなのである。神の権威は代々の父への啓示を通じて表れる。
儒教ではそのような神はいない。だが、父への孝行が犯すべからざる倫理として強調されているのは、舜と父の瞽ソウの説話を読めば明らかだ。これらは日本神話と非常に異なっている。
もっと言うと、結婚の問題がある。もとより結婚は重大な社会的関係づくりで、古代に自由恋愛など認められない。例えば聖書では、アブラハムの子イサクとレベッカの結婚は神の導きによってなされたとされている。舜はやむなく瞽ソウに無断で結婚した。だがそれはそうしないと家系が絶えて先祖の祭りが絶えるから、やむなき倫理的決断であった。ゆえに「これでも親に告げたも同然」とされるのである(離婁章句上、二十六)。
ところが日本神話では父神が息子の行動をしばることなどない。ゼウスのような神の中の神もいないから、これでは息子をしばる上位の存在がないことになる。では、結婚を正しいものと認めるのは誰か?
日本神話は、ここで「嫁の父」を出すのである。婿の父神は出てこないのに、嫁の父は重要な結婚で必ず出てくる。
スサノヲノミコトの嫁クシナダヒメの父、アシナヅチ。
オオクニヌシの嫁スセリビメの父、スサノヲノミコト。
ニニギノミコトの嫁コノハナノサクヤヒメの父、オオヤマツミ。
ホホデミの嫁トヨタマヒメの父、海神。
ごていねいなことに、神々の意見に逆らってオオクニヌシとの結婚を決めたヤガミヒメは、後に来たスセリビメに追いやられてしまうのである。これは、「嫁の父が婿を認めるのだから、これは勝手な結婚ではない」という含意があるからこのようなパターンとなっているのではないか。そして嫁の父の視線は、代表的な世間の目であるというのは、うがちすぎであろうか?
(2005.11.10)