続読荀子 ホーム


滕文公章句下





原文にはユニコードの「CJK統合漢字」を使っています。ブラウザによっては見えないかもしれません。

公孫丑問曰、不見諸侯何義、孟子曰、古者不爲臣不見、段干木踰垣而辟之、泄柳閉門而不内、是皆已甚、迫斯可以見矣、陽貨欲見孔子而惡無禮、大夫有賜於士、不得受於其家、則往拝其門、陽貨矙孔子之亡也、而饋孔子蒸豚、孔子亦矙其亡也、而往拝之、當是時、陽貨先、豈得不見、曾子曰、脅肩諂笑、病子夏畦、子路曰、未同而言、觀其色赧赧然、非由之所知也、由是觀之、則君子之所養可知已矣。

公孫丑が孟子に質問した、
公孫丑「先生が諸侯と会見なさらないのは、何か理由があるのですか?」
孟子「いにしえの時代は、家臣とならなければ会見しなかったからだ。段干木(だんかんぼく。孔子の孫弟子)などは君主が会見しようとしてやってきたら、垣根を飛び越えて逃げたものだ。泄柳(せつりゅう。公孫丑章句下、十一参照)もまた、門を閉ざして君主と会見しようとしなかった。まあこれらは極端な例だ。余は君主が赴いてくるならば、少なくとも会見はするつもりだ。

陽貨(ようか。『論語』陽貨篇に出てくる人物で、おそらく魯の実力者陽虎のこと。本章句上、三参照)は孔子を登用したくて会見を望んだが、礼を失することを嫌った。そこで、大夫(上級家老)が士(一般家臣)に贈り物をした際に本人不在で使者に礼を言上できなかったばあい、大夫の家まで出向いていって礼を言上しなければならないという礼則に着目した。陽貨は孔子が不在のときを見計らって蒸豚を宅に贈った。(陽貨は大夫で孔子は士なので、孔子は陽貨宅に行かなければならない。そこで)孔子もまた陽貨が不在のときを見計らって礼を言上しに行こうとしたのだ。(実は陽貨は居留守を使っていて、結局孔子に会見できたのであるが、)このときですら、もし陽貨が先に孔子のもとに押しかける無礼を働いたならば、とても彼は孔子と会見できなかっであろう。孔子の弟子の曾子は言ったものだ、

肩をすくめてへつらい笑いをするのは、真夏の農作業より疲れる。

と。また孔子の弟子の子路(しろ)はこう言った、

相手と志が合わないのに何か語り、相手の顔色をうかがいながら応対している者の顔は、恥で赤くなっている。このようなことは、それがしの知らぬ道だ。

と。これらの言葉から、君子の平素養うところのものはわかるというものだ。」

本章句下、一及びと同様の主張である。公孫丑は公孫丑章句で孟子斉時代に問答の相手となっているので、斉を去った後孟子は郷里で長いこと引っ込んでいた時期があったようだ。時に宋や滕、鄒や魯の君主に招かれて赴いたこともあったということか。

段干木や泄柳のエピソードからは、孔子の孫弟子世代ごろには世俗の君主を忌み嫌う態度が儒家にあったことを思わせる。おそらく道家思想の衝撃を受けて、腐って道の行なわれないような世から君子は逃げなければならないという観念がかなり有力だったのではないか。孔子の死後、次第に各国の実力者の権力は露骨なものになり、ついに斉・晋の二国は家臣に食い破られてしまう。そのような上下転倒の乱れた世から一歩引く考えが主流だった時期があったのであろう。孟子の世代はそれを克服して、新時代の君主に儒家の正道を伝導しようとするものである。前も少し触れたが、積極的遊説への転換の背後には墨家の影響もあったのかもしれない。

陽貨と孔子のエピソードは、『論語』陽貨篇に詳しく書かれている。大夫(上級家老)が下の身分の士(一般家臣)を招くときにすら、当時は形通りの贈答の礼を行なうのが常識だったことがわかる。だが戦国時代に入って既存の身分秩序がゆるみ、貴族の古きよき文化的秩序が崩れていった。各国の君主は家臣から突出した権力を持つようになり、その周りには国の内外から実力を売り込んできたスタッフが集まるようになった。そのような「まわりくどい慣習よりわかりやすい成果重視」の時代の中で、孟子は昔ながらの君臣の礼に固執して己を枉げない。頑固な保守主義である。

だが、このような態度が世の中に通るか否かは、結局需要と供給の関係なのだろう。自分の能力が世の中のニーズとマッチしていて各国から引く手数多ならば、坐っていて傲然と構えていても向こうから頭を下げてくるものだ。儒家は有職故実に詳しい儀式の専門家集団で、権力を華麗に装飾したい各国の君主の需要は大きかったはずだ。また後の章で改めて検討するが、孟子の教団はおそらく歴史の専門家でもあったと思われる。仕える君主に都合のよい歴史観を構成するイデオローグとしても期待されていたのではないだろうか。このような特殊技能を持っていたからこそ、孟子は君主にへつらわないというプライドを保つことができた。だが後の統一秦帝国の下では法家思想が優勢となって、儒家はただの儀式係の地位に落とされてしまった。その後を受けついだ項羽の楚と劉邦の漢は南方文化の国で、秦よりもさらに儒教に鈍感であった。その時代を生きた儒家の叔孫通(しゅくそんとう)は、生き残りのために涙ぐましいほどに劉邦にへつらったのである。彼は中原文化から卑しまれる楚服を着て劉邦に媚びることも平気で行なった。彼のへつらいのおかげで、儒家は漢帝国の中でまがりなりにも橋頭堡を確保できたのだった。

まことに秦から漢への変わり目の時代は、儒教の危機であった。その時期には儒家といえども君主にへつらわざるをえなかったのである。もし孟子が前知識なしで叔孫通の行為を見たならば、激怒して叔孫通を非難しただろう。だが不利な買い手市場の時代には、思想を後世に伝えるためにはやむをえないことであった。儒教は礼儀進退の形を保守しようとする教えであるが、正義の究極の根拠を己の心の至誠さに求める点で、状況に応じて自分で判断して自由に進退させる側面がある(離婁章句上、十二)。時勢が不利なときには叔孫通のようになりふり構わず行動することが、結局活路を見出すことになるかもしれない。要はオーソドックス(正統)を固く信じている者は、意外に柔軟に状況に対応できるのである。状況に流されて心が動揺しない自信があるからだ。その意味で儒教は強い宗教であった。


(2005.12.12)



「孟子を読む」トップへ    ホームへ戻る



菜単
≪ メニュー ≫

梁惠王章句上

/七(その一その二その三

梁惠王章句下

十一十二十三十四十五十六
雑感その1その2

公孫丑章句上

/二(その一その二その三その四その五)/
仁・隣人愛・決意

公孫丑章句下

十一十二十三十四「見られる」倫理

滕文公章句上

/三(その一その二)/四(その一その二その三)/

滕文公章句下

/九(その一その二)/

離婁章句上
はコメントあり》


十一十二十三十四十五十六十七
十八十九二十二十一二十二二十三二十四二十五二十六二十七
二十八

離婁章句下
はコメントあり》

十一十二十三十四十五十六十七十八十九二十二十一二十二二十三二十四
二十五二十六二十七二十八二十九
三十三十一三十二三十三三十四
古代中国にデモクラシーを!?(その1その2

萬章章句上

萬章章句下

/四(その一その二)/

告子章句上
はコメントあり》

十一十二十三十四十五十六十七十八十九二十

告子章句下
はコメントあり》



十一十二
十三十四
十五十六

盡心章句上

十一
十二十三十四十五十六十七十八十九二十二十一二十二二十三二十四二十五二十六二十七二十八二十九 三十三十一三十二三十三三十四三十五三十六三十七三十八三十九四十四十一四十二四十三四十四四十五四十六

盡心章句下

十一十二十三十四十五十六十七十八十九二十二十一二十二二十三二十四二十五二十六二十七二十八二十九三十三十一三十二三十三三十四三十五三十六/三十七(その一その二)/三十八


おわりに