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盡心章句下



二十三



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齊饑、陳瑧曰、國人皆以夫子將復爲發棠、殆不可復、孟子曰、是爲馮婦也、晉人有馮婦者、善搏虎、卒爲善士則之野、有衆逐虎、虎負嵎、莫之敢攖、望見馮婦、趨而迎之、馮婦攘臂下車、衆皆悦之、其爲士者笑之。

斉で飢饉が起きた。弟子の陳瑧(ちんしん。シンは「ぎょくへん+秦」)が言った、「国民は皆、先生が前回の飢饉のときと同様に棠(とう。山東省)の倉を開くように運動すると期待しているようです。先生、どうしても今回はなさらないのですか?」
孟子「そのようなことは、たとえるならば馮婦(ふうふ)のやったことを行なうようなものだ。むかし、晋に馮婦という者がいた。この者は虎を手でつかまえるほどの豪傑であった。だが後によき士(し。一般家臣)となった。ある日、野を通りかかったとき、人々が虎を追いかけているのを見かけた。虎は山を背にして構え、恐ろしくて誰も近づけなかった。そこに虎殺しで有名な馮婦が来たのを見て、人々は走りよって依頼した。すると馮婦は腕をまくり上げて車を降り、虎退治に参加したのだった。人々は皆喜んだ。だが、士たちは馮婦の行為を笑ったものだ。(礼の秩序に外れた行為をむやみにするのは、善行でもなんでもない。)」

本章は離婁章句下、三十同、三十二の主張と絡めて考えるべきであろう。儒教にとって礼とは何であるかを、最もよく示した章のひとつである。ちなみに本章について吉田松蔭は、孟子の馮婦への評価が最終的な解答となって人々が馮婦を笑うのに異議を唱えている。当世の武士たちが少し大人になるや否や修飾に気を使い文柔を学び英気を失ってしまう姿を批判して、それに比べて「馮婦は、実に侮り難い人物である」と評価している。積極的な読み方であるが、儒教にとって肝心かなめの礼の意義を軽視している読み方とも言える。

君子というものは、「仁でなければ何も行なわず、礼でなければ何も行なわない」(離婁章句下、二十九)。言うならば、仁の心をしっかりと持つことは、人間を積極的に前に動かす動力源である。いっぽう社会的なルールである礼に則ることは、人間を無益で徒労な行動から遠ざける抑止力である。儒教にはこの二面があるところが、ひたすら積極的な善行を勧める墨家やキリスト教などと違う。

本章で孟子は、斉の人民の期待に応えようとしなかった。以前に一度は仁の心に駆られて飢饉救済運動を行なったものの、今回再び行なうことを拒否した。好意的に解釈すれば、孟子はずっと前から斉王に仁政を説いて、富国強兵政策をやめて民生安定策を取るように進言してきた。以前の飢饉では孟子は国の上層部に働きかけたが、今回の飢饉については斉王や側近たちが自ら決断して倉を開かなければならない。いや、国の基本方針を民生安定に向けて、飢饉対策を練っておくべきだったのだ。孟子はそのような斉王の決意もなしにまたも倉を開く運動をしたところで、かえって国のためにならないと考えたのであろう。

孟子は、馮婦が虎退治に参加して笑われたエピソードを、君子が取るべきでない行為のたとえとして出した。君子が置かれた立場でなすべき仕事以外のことに手を出して、礼の秩序をぼやかすことは極力謹まなければならないと考えるのである。そういった儒教の礼は、宗教的戒律とでも言うべきなのであろうか?ユダヤ教やイスラム教では、厳格に宗教的タブーが規定されている。またキリスト教にも戒律がある。それらの宗教においては、禁止事項は神からの掟として定められている。しかし儒教の礼はそうではない。「礼は庶人に下さず」という言葉があるように、上流階級以外の人民には礼など必要とされない。また君子が礼に則ることも、社会秩序の中で生きるよき人間として自覚を持っているからそうするのである。礼に外れることは天罰に値するタブーでなくて、馮婦のように社会から笑いものにされるゆえに忌むべきことなのである。つまり、礼に外れた行為で汗をかくことなどは、社会的に評価されることがなくて自分にとっても損なのだ。ゆえに君子が礼に則ることは、自分の利益のためである。

誰にも見られず、誰にも評価されない善行などは、儒教は積極的に評価しない。「右の手で行なったことを左の手に知らせるな」と説いて、天の父なる神以外の誰かに善行を知られたところで救いには無益であると説くキリスト教とは、心の方向が全く違う。儒教は、あくまでもこの地上の他人とのよき社会関係づくりを目指す教えなのである。だが地上の他人との関係で善を考える教えであっても、墨家やコミュニズムなどのように天下の利益のためになりふり構わず働けとする考え方もまた斥ける。むしろ「天爵」である自分自身の命を、最も効果的に活用できるような仕方で慎重に行動せよと説く。すなわち、礼に則って自分の立場に応じた形の働きかけを他者に行なうことによって、はじめて他者に通じる善行もまた行なうことができる。それが天命を全うするということなのだ、と説くのである。「やむにやまれぬ大和魂」の気概も大切だが、それだけでは偉大な仕事はできない。惻隠・羞悪の気概を一方で持ちながらも、自らの智を働かせて外界をよく理解し、他者を共感させるための社会的な道筋を知れ。それが、儒教の教えであろう。


(2006.04.10)



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