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盡心章句上



三十二




公孫丑曰、詩曰不素餐兮、君子之不耕而食、何也、孟子曰、君子居是國也、其君用之、則安富尊榮、其子弟從之、則孝悌忠信、不素餐兮、孰大於是。

公孫丑が質問した。
公孫丑「詩経にこうあります、

(君子たるものは、)
ただ飯食いをしないものなのに、、、

(魏風『伐檀』より。詩は役人の苛斂誅求をそしる内容)

と。なのに君子(ここでは、暗に孟子のこと)が耕しもせずに食しているのは、どうしてですか?」
孟子「君子が国にいるならば、いったん君主が彼を用いれば繁栄と栄光は思いのままとなる。国の子弟たちがつき従えば、彼らは家の中では孝悌を守り、家の外では忠信を守るようになるのだ。これ以上に『ただ飯食いをしない』者がいるだろうか?」

滕文公章句下、四などと同様のテーマの章。ここでは公孫丑が質問している。公孫丑章句冒頭では大先生の大ブロシキにすっかり圧倒された彼も、どうやら他の弟子たちと同様に大先生の行動に疑問を持ったようだ。それに対する孟子の回答はいつも同じである。君子は正しい道を歩んで日々精進している社会の木鐸であって、存在そのものが有意義なのだ。だから特に仕官もせずに諸侯からいろいろ貰って暮らしていても、一向にやましいことはない。そのために諸侯に頭を下げることなどしないし、富貴に目がくらんで買収されることもありえない。強烈なエリート道である。

だが少なくとも『論語』の中では、弟子たちが孔子にこのような疑問をぶつけることはしていない。存在そのものが先進的であった孔子と、多数のライヴァルが同時代にいて競合していた孟子との時代の違いであろう。それでも孟子の時代では本章のように大きく構えていることもできた。やがて時代が下って秦の始皇帝の時代になると、儒家の存在価値は大きく落とされてしまうことになる。せっかく皇帝が泰山で封禅の儀式をしようとして儒家たちに得意の有職故実を期待していにしえの儀式について質問したのに、彼らはまともに答えられなかった。皆が言うことがまちまちで、彼らの知識のいい加減さが暴露されてしまったのである。あきれた始皇帝はさっさと儒家に見切りをつけて、自分なりのやり方でプログラムを立てて儀式を行なってしまった。その後叔孫通(しゅくそんとう)など一部の学者は首都に召抱えられることになったが、他の者たちは帝国から見捨てられたのである。後に始皇帝の死後、孔子の子孫の孔甲(こうこう)は以前のことを根に持って秦を逆恨みし、自ら反乱軍の陳渉の下に赴いてスタッフとなった。百姓出のにわか分限の下に孔子の子孫が飛びついて、その末路は陳渉と共に死んでしまった。秦から逃げ出した叔孫通が劉邦に何とか拾ってもらうためにみじめなまでにこびへつらった姿は、以前にも書いたとおりである。儒家たちはこの頃ここまで追い詰められたのだった。その後儒教は漢帝国の権威を修飾するイデオロギーとして復活し、権力の庇護の下で後世まで伝えられることになるのであるが。


(2006.03.23)



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