本章は、「堯 から舜への禅譲は、君主の自由意志によってなされたのであろうか?」とでもいうべき萬章の疑問に対する孟子のお答えである。次の章で議論される、舜からさらに禅譲を受けた禹の後を息子の啓(けい)が受け継いで世襲の夏王朝へ移行したことと併せて、孟子が何とか君主の意志を越えた「何ものか」の意志の存在を示唆して歴史を正当化しようとする解釈が行なわれる。それが正しいのかどうかなど、しょせんは形而上学だから全くわからない。歴史的事実に摂理をあてはめて解釈しようとするヘーゲル的な思考のゲームは、いつの時代にもある(何せギャルゲーの歴史に弁証法的論証を当てはめようとする論者までいるぐらいだから、、、)。それも思想の一つの型であろうが、本章以降の孟子の説明のように、後世の目から見ればいかにも独善的な強弁である面が多く見られるのは致し方ないことであろう。
もちろん儒教にとって「天命」とは要のキーワードであり、「天爵」を大事にすることが儒教の倫理学説の積極面を強く形作っていることは、これまでも見てきた通りである。人間存在を超えたところにある摂理への確信があってこそ、人は仁義礼智の徳を自らの中に感じてそれを選びとって伸ばす決意ができるのだ。それについては、私はとやかくあげつらいたくない。しかしだからといって歴史にも摂理が貫かれているはずだという考えから過去の事実を解釈すると、結果として偏ったストーリーを構築することになるだろう。そして後世の儒教は孟子たちの構成したストーリー(英語の"story"と"history"は同語原)の眼鏡をかけて、過去を見るようになってしまった。
舜が天子となった必然性について、四書の一、『中庸』にはこのような記述がある。すなわち、
孔子は言った、
「舜は大孝かな!徳としては聖人であり、貴さとしては天子であり、富は天下を有し、それを宗廟に捧げ、子孫にも伝え保った。ゆえに、大徳の人は必ずしかるべき位を得て、必ずしかるべき禄を得て、必ずしかるべき名声を得て、必ずしかるべき寿命を得るのだ。ゆえに、天が万物を生じさせるときには、必ず材(素材。質量)を元にして、助長させる。しっかり植わったものはそれを培(つちか)い、勢いが傾いたものはそれを覆すのだ。詩経に言う、『嘉楽(めでた)きは、天子/その徳明らかに渡り/百官人民によし/禄を天に受けて/天は君を保ちて/ますます栄(は)えを重ねる』(嘉楽ナリ君子/憲憲タル令徳/民ニ宜ク人ニ宜ク/祿ヲ天ニ受ケン/保右シテ之ヲ命ジ/天ヨリ之ヲ中(かさ)ヌ)と。ゆえに、大徳の者は、必ず天命を受けるのだ。」
(第十七章。詩経の句は、大雅『仮樂』より)
このような叙述が、後世に朱子が解釈したように天の意志の人事への介入を意味しているのかは、私にはよくわからない。もしそうならば、舜という存在は天が培(つちか)ったゆえに天子の位を得たのであるということになる。逆に夏の桀王や殷の紂王は、王朝の命数が尽きて傾いていたから現れて、天の意志によって王朝を覆す役を担ったにすぎないということになるだろう。いずれにしても、人間には計り知れないことだ。
孟子は本章で、「天に推薦して、天がこれを受けたので、人民の前に出したところ、人民はこれを受けた」と言う。君主は天に推薦し、天の代弁者である人民に推薦することしかできない。天と人民が受けることによって、帝位の譲渡は正当化されるという。人民が受けたサインは、丹朱と舜の事例を見れば具体的にわかるだろう。しかし天が受けたサインは、どうやって判定すればよいのか?孟子は「推薦した者に祭りを担当させたところ、神々がこれを受けた」(之ヲ主祭セシメテ百神之ヲ享ク)と説明する。つまり、人間の祈りが神々に通じて万物に調和をもたらしたという呪術的結果がサインなのである。だがこんなものは現代的な常識から言えばオカルトそのものであって、(私としては)一顧だに価しない。しかし宋代儒者たちは『中庸』のオカルトとも取れる叙述を形而上学的に考察して、人間と万物自然とを共通に貫く調和の原理を認識して天下を治めるという壮大な理論を大真面目に論じたのであった。
孟子はこの章や公孫丑章句下、十四での五百年周期説などを見る限り、オカルト的な思考を受け入れていたとも見える。しかし他方で盡心章句下、三で「ことごとく書を信ずれば、書なきに如かず」と言って、過去の伝承を丸呑みに信じることを拒否する自律的な思考態度も見せている。私の印象としては、孟子は戦国時代に生きた思想家らしく、論理の一貫性を追求しようとする合理的思考が濃厚に出ていると思う。本章での天の意志についての考え方にしても、それなしでは人間の意志が絶対的となってしまって倫理体系が成り立たないから置いているように思えるのだが。むしろ孟子にとって大事なのは末尾にある書経『大誓』からの引用、「天が見るのは、我が人民が見るのに従う。天が聴くのは、我が人民が聴くのに従う」であろう。天の声の代弁者として人民の声を据え付けることが、孟子の仁政論のバックボーンとなっているのだ。そのための天であったとみなすべきではないだろうか。
これが次の世代の荀子になると、自然現象が天の意志の表れであるというオカルト的な思考は全く却下されるようになる。雨乞いなどの儀式を行なうのは、人民がそれを信じているのだから秩序維持に役立つのだなどという議論まで行なうのである。荀子の弟子の韓非が現存の『韓非子』のどれだけを自ら著したのかは、少しく議論があるところである。しかし後世の追随者たちの増補が相当混じっているとはいえ、『韓非子』各篇では歴史的結果を分類して整理し、原因を割り出してそこから共通の法則を導き出そうという分析的手法が縦横に展開されていることを読むことができる。戦国時代は、近代までの中国社会の歴史において最も合理的思考が支配した時代であった。
秦の滅亡から百年が経過した時代に、司馬遷は『秦始皇本紀』の末尾で漢文帝時代の能臣、賈諠(かぎ、BC200 - 168)が著した秦滅亡の要因論を引用している。それは儒教的倫理観が濃厚であって、強かったはずの秦が陳勝ごときの反乱で覆されたのは「仁義を天下にほどこさなかったからであり、また、戦国の時と違って攻め立てられてもっぱら守勢に立ったからである」(野口定男訳)という。秦滅亡から漢成立への歴史に対する分析は、こうして道徳論で片付けられることとなった。賈諠の次の世代である董仲舒(とうちゅじょ)が『春秋』の記述に則って展開した歴史観は、自然災害を天子の不徳の結果であるとみなすオカルト的思考に逆戻りしてしまった。前漢末期には緯書(いしょ)と呼ばれる奇怪な予言書が出現し始め、後漢時代には歴代の皇帝がこの緯書にかぶれるようになった。合理的思考は漢代に衰えてしまったのである。それは精神の衰退であったのだろうか。それとも、合理的思考にはそれぞれの文明で展開できる範囲というものがあって、古代中国では法家思想によって行き着くところまで行ってしまったのであろうか?
(2006.01.27)