本章の慎子(しんし)とは誰か?一説に、斉の都に集められた「稷下の学者」グループの一員である、慎到(しんとう)のことであると言う。『史記』孟子荀卿列伝では、荀子が五十歳にして始めて斉に遊学したとき、騶衍(すうえん、スウは「うまへん+芻」。以下、スウ衍と表記)らの学者たちが皆健在であったと記述されている。このスウ衍も「稷下の学者」の一人で、彼は孟子よりも後の時代の人だとも書かれている。果たして荀子が斉に遊学したときに健在だった学者の中に慎到が含まれていたのかはわからない。しかし本章で慎子は孟子に対して、本章句下、六の淳于髠(じゅんうこん。コンはかみかんむり(「髪」の上半分)に「几」。)と同様にへりくだった応答を行なっている。だから慎子は少なくとも孟子よりも年少であったのではないだろうか。そう考えれば、本章の慎子が慎到であるという考えは、少なくとも年代的にはつじつまが合いそうだ。
その慎到は道家の系統の学者で、「勢」(勢力)を国家統治の根源に据えて法家思想を用意した。『韓非子』難勢篇が、慎到の「勢」説の検討に割かれている。いわく、
慎子は言う、
「飛龍は雲に乗じ、騰蛇は霧に遊ぶ。しかし、雲が消えて霧が晴れれば、飛龍・騰蛇といえどもミミズや蟻ん子と変わらない(龍や神蛇は雲や霧を得て天に昇る、という伝説を踏まえて言っている)。それは、乗じる物を失ったからだ。ゆえに、賢人が愚か者に服従するのは、権威が軽くて位が低いのが理由である。愚か者が賢者を服属させるのも、権威が重くて位が高いのが理由である。堯帝といえどもただの庶民に落とされれば、三人を統治することすらできまい。桀王といえども天子の位にあれば、天下を意のままに操れるのだ。余は、これゆえに勢力と位こそが恃むに足りるものであって、賢や智が愛するに足りないものであることを知る。弩(ど。いしゆみ)の力が弱いのに高く矢が飛ぶならば、それは風に勢いを得たからである。愚か者なのにその命令が下に行なわれる者がいたならば、それは多数の人間の助力を得たからである。堯帝も隷属民の位に落ちれば、人民は聞く耳を持たないだろう。しかし南面して天下の王となれば、命令を出せば行なわれ、禁令を出せば皆がやめる。これを見るならば、賢や智は多数の人間を服属させるに足りず、勢力と位は賢者すら服従させるのに足りるのである。」
ここから、堯や舜のようなめったに出ない聖王を待つよりも、程々の能力の君主でも政治が行なえるように勢力と位を活用して国家を動かす方が優れているのだ、と議論が続いていく。道家らしく逆説的な議論でありながら、その主張はまさしく後世の法家の統治思想である。もっとも、生命を大事にする道家思想と、本章の慎子が将軍職に任命されようとしていたという記述とは少しくギャップが感じられる。もし本章の慎子が慎到であったとしたならば、若年時でまだ道家思想に傾倒していなかった頃であったか、それとも道家思想を完全に方法論的に限って摂取し、国家の勢力拡大のための戦争を肯定していたかのどちらかだったであろう。だが本章の慎子は魯の誘いを受けて斉と戦おうとしている。戦国時代のことだから、ある国のために働いた者が後にその敵国に迎えられることなど日常茶飯事であったとしても、慎子=慎到であるならば本章の問答はまだ斉に居付いていない頃のものと考えるしかない。あるいは孟子の説得によって魯へ行くのをやめたのかもしれないが。
その慎子に対して、孟子は戦争による領土拡大に反対する。これも、前の章で春秋の五覇と現代の諸侯をいにしえの聖王の罪人と断じた論法と同様である。梁恵王章句で展開された「仁者無敵」論からすれば、戦争により人民を殺して領土を奪うなどは、倫理的悪であると同時に天下平定のためにも無益なことなのである。
周の武王の弟の周公も、太公望呂尚も、もとの封地は百里四方であったと言う。周公は魯の開祖であり、太公望呂尚は斉の開祖である。時代が下って戦国時代には一方で斉が東の大国となり、もう一方で魯は年々周辺列強に圧迫されて気息奄奄とした状況であった。そんな魯でも、周公の封地よりも五倍も増えていると孟子は言うのである。
だがここで孟子は「倹約して止めたのだ。土地が足りなかったわけではない」と言うのだが、事実はどうであったか。むしろ、鉄器がまだ普及せずに耕作が十分に行なえず、ゆえに大した領域の土地を統治できなかっただけなのではないか。生産力が不十分で交易も発達せず、広い領域に共通の文化が普及する以前の状況においては、どうしても小領域国家が分権的にバラッと拡がる社会ができあがる。戦争をするだけの余剰すらないので、大規模な戦いも起きない。辺境は文化的に遅れているので、王朝の文化的権威は自然に尊重されることとなるだろう。しかし生産力が発達して軍隊と官僚を養うだけの余剰が発生し、かつ文化が辺境にも普及してくると各地の領域国家の中から強力な自律勢力が台頭するようになるだろう。その段階になると王権は衰え、各地で領土拡大をめぐる争いが始まる。同時に広い領域に共通した文化が意識されるようになり、統一的な法の秩序が模索されるようになってくるだろう。前の章で出た斉の桓公が行なった会盟は、そのような社会的段階で起ったことだと考えるべきではないだろうか。さらに時代が進むと、領域国家はさらに大規模となって、小国は踏み潰されて整理されていく。その向こうに見えるのが、共通の文化圏を最後の勝利者が一元支配する、天下の統一である。日本の戦国時代も、ドイツやフランスの統一も、このような経過をたどった。古代中国もまたそうであったろう。
つまり孟子は、戦国時代の視点で過去を見ているのである。しかしいにしえの時代には、戦国時代のように開墾された土地はなかった。広い領域を統治しようにも、官僚を養うだけの余剰もなかったし行政を行なうための人材も確保できなかった。できなかったからやらなかったのであり、孟子の言うようにできたけれどもやらなかったのではない。孟子が天下に普及させようとする思想ですら、共通の文化圏がようやく意識されるようになって普遍的な思想による統治が人の意識に上るようになった、ずっと最近の社会を前提にして成立しているのだ。もちろん孟子はそのような視点を決して持っていない。だがそれはそれでよいのである。発達した社会には、場当たり的でない練り上げられた思想が必要なのだ。「周公や太公望への封地をあえて小さくしたのだ」として読み取るところから、政治思想が出てくる。軍隊も官僚も余剰の産物であって、ゆえに何らかの倫理的規範がなくては無軌道に陷る趨勢があることは、二十一世紀までの歴史を見れば明らだ。孟子の仁政論は、そのための一つの倫理的規範である。
次章は、本章の主張の繰り返しである。第十章と第十一章は白圭(はくけい)という人物との政策論議であるが、その内容に見るべきものが乏しい。第十二章も格言的断章なので、スキップする。
《次回は告子章句下、十三》
(2006.03.03)