三年の喪。これが前章で孟子の言った、「瞑眩の薬」(めまいがするほど強い薬)の第一歩である。親の死を悼んで三日間絶食し、その後初めてうす粥をすする。本当にめまいがしそうだ。五ヶ月はあばらやにこもって、一切の政務を見ない。何という悠長な儀式であろうか。明日には敵軍が攻めてくるかもしれないというこの戦国時代に。
だが、考えてみれば、人が死ぬということは大変なことである。現代日本人のように職場の同僚など四十五日もすれば死者のことを忘れてしまい、親族でさえいつしか忘れてもさほど気にも留めないことのほうが変なのかもしれない。儒教というのは、人の死というあまりにも不条理で不可思議な現象を何とか忘れまいとするための儀式を大事にしようという教えである。死んだ事実はどうせ変わりっこない。だから儀式にはどれだけやれば適当なのかという限度などない。そういうわけで、三年の喪というのはいにしえのしきたりに則った一応の基準であって、その心は「一日でも多く喪に服したほうが、何もしないよりはよい」(盡心章句上、三十九)というのものである。キリスト教だって仏教だって、その根源は人の死をどう考えればよいのかという問いから始まっている。儒教の豪勢に過ぎる葬礼は、地上の論理を超えた不条理に対する一つの宗教的態度だ。家産を傾けるほどに豪勢な葬儀を行なう習俗は、結構世界中に存在している。
この章での家臣や一般大衆の反応に見られるように、三年の喪はいにしえの習慣であるといっても当時の社会にとっては異様なものであった。三年親の喪に服すという考えは『礼記』や『儀礼』に詳述されていて『論語』でも言及されている制度である。だがそれを戦国の世で主張したはおそらく儒家だけであって、他学派は冷淡あるいは反対だったであろう。反対派の急先鋒は墨家であって、『墨子』には節葬篇という篇までわざわざ編集されている。その心は、
手厚い葬式とは考えるに、たくさんの財物を地中に埋めることである。長い喪とは考えるに、長い間仕事を行なうのを禁ずるものである。せっかく作った財産を穴の中に埋めてしまい、生きてものづくりができる人を、長い間働くのを禁ずる。こんなことをやって富を求めるのは、たとえるならば耕作を禁じて収穫を望むようなものだ。
(節葬篇より)
だから、葬式は簡便に、遺族は葬儀が終わったらすぐ仕事に復帰すればよいと主張する。現代人の感覚に近い。そしてこのような墨家の考えは、戦国時代当時でもそんなに切り詰めすぎだとは受け止められていなかったであろう。人の心が開けて合理的になってくるとこういった趨勢が強くなってくるのだ。
だが孟子はあくまでも古式に基づいた葬儀を文公に勧める。よれよれになるまで絶食することによって、親を失った悲しみが表現される。日常の仕事を全て投げ出すという態度によって、死が地上の論理を超えた不条理であることを残された人間に受け止めさせる、という倫理的装置を大事にするのである。これには妥協しない。ただ、儒教は殉死の習俗については人の命をないがしろにするものとして完全に否定している(梁恵王章句上、四参照)。
さて、新しく即位してなんとか国を興す手立てを求めて必死な若き文公が、孟子の薦めを聞いて三年の喪を挙行する決意を固めるのであるが、家臣は「そんな制度聞いたこともない」とあきれて反対する。だが公は「先生の言うことはまちがいない」と突っぱねる。ここまで若い君主に確信させる孟子は、まさに青年の誘惑者である。公は今まで馬や剣の遊びばかりに熱中していた馬鹿太子であった。それが今や国君としてこの危急存亡の秋(とき)に心を入れ替えようというのだ。まるでシェークスピア描くハル王子即位してヘンリー五世のようだ。あちらは放蕩騎士フォールスタッフを斥け、こちらは伝統の体現者孟子を師として仰いだ。結果は別として、その意気や殊勝なり。
そしてついに喪の荒行が挙行された。それを見ていた百官や一族の者に、何かが伝染した。人間の死の厳粛さに人々が目覚めたのであろうか?それとも公の愚かしいともいえる真剣さに人情を感じたのであろうか?はたまたこれぐらい一途に何かを行なう君主がこの国に現れたことで、すっかり国の将来にあきらめかけていた百官一族に奮起する心を呼び覚ましたのであろうか?、、、、それは、わからない。大葬の日、周りには物見高いギャラリーたち。「会葬者は大いに感服した」なんてどうせ『孟子』編集者のつけたしだろう。儒家的建前では、君主の喪の心は百官一族はおろか一般人民の心まで揺さぶり動かさなくてはならないのだから。だが少なくとも文公にはこの日だけでも勝者の栄冠を与えようではないか。公のこの日の行動は『孟子』のこの章に記録されることによって、数千年後にまで伝えられる栄光を得たのだ。現場の彼を取り巻く周囲の視線はおそらく生温かいものであったろうが。もはやこの後の滕国に残された年数は、そう多くはない。
(2005.11.23)