斉が燕を伐って大勝し、斉宣王はそれを機会に燕を併合しようと企んだ。その背景の事情は梁恵王章句下、十一を参照してほしい。その戦役の後押しをしたのが他ならぬ孟子である。本章では孟子は大夫の沈同に問われて意見を言っただけで、しかもその真意は別にあったと弁明している。だが『史記』燕召公世家ではそのような事情抜きに、斉王に燕征伐を進言したのは孟子だとはっきり書いている。
もとより真相はわからないが、ひょっとしたら『史記』の記述が正しいのかもしれない。いや、少なくとも世間はそのように捉えていたのだろう。結局斉の宣王は我欲で兵を進めただけで、併合作戦は国人の反抗にあって大失敗に終わった。斉は不義の汚名だけを残して何の利益も得られなかった。それだけではない。燕に遺恨を残したことが新しく即位した昭王(しょうおう)を斉への復讐に奮起させ、後に名将楽毅(がっき)に兵を率いさせて斉を逆襲することになった。斉は大敗して時の斉王は亡命先で死に、ほとんど滅亡寸前にまで追い込まれる。孟子の進言は斉の歴史にはなはだしい害悪をもたらす結果となったのである。
《追加》平セ隆郎氏は先秦時代の暦を考証した結果、司馬遷が先秦時代の資料を整理した際に重大な年数の数え方の認識ミスを行なっていたと結論しておられる。その結果として戦国時代の王の即位時代・年数が狂ってしまったり、同一人物を無理に二人として数える結果となったという。すなわち『史記』田敬仲完世家の記述では斉王国の王位は「威王→宣王→湣王(びんおう、「ビン」はさんずいへんの右に民+日。以下「ビン」と表記)」と続くとされているのが、実際は「威宣王→ビン宣王」の二代のことであると結論しておられる(同氏著「『史記』二〇〇〇年の虚実』、講談社)。つまり『史記』で孟子の進言を受けて燕討伐を行なったと書かれている「ビン王」と、同じく『史記』で燕に敗れて死んだ「ビン王」と、そしてこの『孟子』で燕討伐の兵を進めた「宣王」はすべて同一の「ビン宣王」の事跡なのである。ところで「宣王」という称号は、これも平セ氏によると幼少時に賢人の共伯和(きょうはくわ)が摂政となって後に即位した周の宣王の故事を踏まえて、「賢人の斉侯時代から進んで新時代の王となった宣王である」という意味合いが込められているという(尾形勇氏・平セ隆郎氏共著の『世界の歴史2 中華文明の誕生』、中央公論社)。すると、初めて王を名乗った「威宣王」の名は、つまり「威(たけ)き宣王」のことであり、ひるがえってその子の「ビン宣王」の名は、「暗愚な宣王」(「ビン」は乱脈、暗愚の意がある)ということである。孟子もまた宣王のことを会見当初から全く評価していなかった(公孫丑章句下、十四)。宣王=ビン宣王は、血気盛んであったが外交というものを知らなかったというところであろうか。(2005.12.02) |
これは孟子の業績にとって大汚点である。結局『孟子』のこの章は、世間の非難に対する弁明として収録されているのではないだろうか。「孟子は斉王に直接進言したわけでもないし、真意は別にあったのだ」と。そしてさきの梁恵王章句には燕を併合しようとする宣王に対して孟子が諌めた記事を置いて、事後の収拾に努力している姿が書かれている。これで筋を通したという主張である。
しかしこれでも国際軍事裁判などであれば、共同謀議による「平和に対する罪」でA級戦犯とされるかもしれない。もし燕が完全勝利して斉を併合してしまい、その後仮に現代流の国際軍事法廷が開催されたならば、孟子は拘束もされず全くお咎めなしで終わるとはとても思えない。事後収拾に努力したからいくらかは情状酌量されるだろうが、初動に関わった事実は消えないだろう。真意がどこにあったかどうかは別にして、結果は結果である。「意図は正しいものだったのだから、結果に対して免責される」という論法は、果たして許されるのだろうか?
少し長いが、マックス・ウェーバーの言葉を引用しよう。
たしかに、政治は頭脳で行なわれるものですが、もちろん、頭脳だけで行なわれるものではありません。この点では、信念倫理を奉ずる人々の言うことは全く当たっています。
けれども、信念倫理を奉ずるものとして行為すべきか、責任倫理を奉ずるものとして行為すべきか、また、どういう場合にどちらを選ぶべきか、こういうことについては、誰に対しても指示を与えることは出来ません。いえるのは次の一つだけです。もしも、今日、みなさんの考えていらっしゃる「不毛」ではない興奮 ― しかし、結局、興奮は真の情熱ではない、少なくとも、真の情熱とは限らないのです ― の時代に当って、信念倫理を奉ずる人間が俄かに輩出して、「世界が愚かで卑しいのであって、私がそうなのではありません。結果に対する責任は私にあるのではなく、他の人々にあるのですから、私はその人々のために働いて、彼らの愚かさと卑しさを根こぎにしようと思います」という合言葉を振り廻すような場合、私はハッキリと申しましょう。「この信念倫理の背後に、どのくらいの内的な重みがあるのか、先ず、それをお尋ねしたいものです。そして、十中八九までは、自分の負っている責任を本当に感ぜず、ロマンティックな感動に酔っている法螺吹きを相手にしているという印象を受けます。」人間という点から見ますと、私はこういうことにはあまり関心がありませんし、また、全く感動いたしません。これに反して、結果に対する責任を本当に深く感じ、責任倫理に従って行為している成熟した人間 ― 老若を問いません ― が、或る一点で、「私はこうするより仕方がありません。私はここに立っています」と申しますなら、それは測り知れぬ感動を与えます。これは人間的に純粋なもの、魂を揺り動かすものであります。なぜなら、内部が死んでいない限り、私たちはみな、いつかは、こういう状態に立ちいたらざるを得ないからであります。この限りにおいて、信念倫理と責任倫理とは絶対的な対立物ではなく、むしろ、両者が相互に補い合って「政治への天職」を持ち得る真の人間を作り出すのであります。
(『職業としての政治』 Politik als Beruf より。清水幾太郎・清水禮子訳)
政治によってなされた国家の対外的行為の結果について、それが国際法廷によって裁かれるべきなのか、あるいは国家意志のなした行為を裁くことは原理的にできないのかという両者の主張は、しょせん水掛け論であろう。時代精神に応じてどちらかが選択されるだろうが、絶対的な正解はないようだ。政治がなした国内的行為の結果についてはもう少しはっきりしているだろうが、それも時代ごとに定められた公法次第で責任の取らされ方は変わる。だから、ウェーバーはあるべき政治家について上のように美的に批評するしかないのである。政治家には責任倫理が求められる。しかし正義の情熱に基づいた信念倫理を否定するのは、政治家の魂を否定するものだ。責任倫理と信念倫理とをどれだけの重みで感じるべきなのか、そして両者をどのように使い分けるべきなのかについて、ウェーバーは指示を与えることはできない。ただ、浮ついた「ロマンティックな感動」につき動かされているだけで、その倫理的判断が結果するだろう責任を本当に感じていない法螺吹きは、何ひとつ共感できない。それは「成熟した人間」の態度と思えない。したがってそのような人間は、政治家としての資質に足りないものがあると言わざるをえない。このようにウェーバーは批評するのである。
戦国時代は、政治的実験の時代であった。どのような統治方法が天下にとって最適なのかを人々が激しく論じ、そして各国の君主に売り込んだ時代だった。だから、結果が全てわかってしまっている現代人が戦国時代の孟子を論難することは、強い留保を置かなくてはならない。だが後世の者は、孟子が斉王に直接進言しようが大夫との会話で言及しようが、彼の言葉が大きなきっかけとなって不義の戦争が起ったことを知っている。孟子は国家エゴというものが自動運動を起こすことがよくわかっていなかった。そして有名人である自分の言葉が斉を動かす格好の宣伝材料になることもわかっていなかった。大先生の重大な過失である。予見できなかったのは、不智といわざるをえない。
孟子は次の章で、「智者だって誤りはある。ただ、智者は誤りを直ちに認めて改めるだけだ」と弁解する。確かに政治から誤りが消えることは、これからの人類の歴史でも決してないだろう。人類の歴史は常に未知の出来事が次々に現れるからである。だから責任倫理といえども限界がある。政治家は不確実な未来に向けてジャンプしなければならないことが必ずあるのだ。そのときには信念倫理に頼らなければならない。だが少なくとも孟子が重要な役割を果たした燕討伐戦は、完全に誤った政治であることがわかった。その責任から免れることはできないだろう。この後にも孟子は相変わらず斉に居続けることができているから、国法による責任追及はされなかったようである。しかし、だから孟子が正しいというわけではない。智者であっても、誤りによって刑に処されることもある。たとえ信念が正しくても、これだけは認めなくてはならないのではないか。
(2005.11.11)