萬章章句後半は本章のように孟子単独の語録が二章、弟子の萬章に語った語録が一章、そして残り六章が問答形式である。問答形式の章のうち四章が萬章とのものとなっていて、本章句は最も近い弟子であった萬章の手元にあった記録を整理したものなのかもしれない。
本章は「集大成」の成句の出典であるように、孔子が過去の聖人賢者の徳行と業績の集大成をした完成者であったと力説するものである。公孫丑章句上、二や同、九あるいは本章句上、七や盡心章句下、十五で述べられたいにしえの聖人賢者たちがここでまとめて批評されている。だから本章は孟子の批評の「集大成」である。
荻生徂徠などは異論を唱えるところであるが、孟子はここで孔子だけでなくて伯夷、伊尹、柳下恵にも「聖」性を認めている。だが本章末尾の孟子の批評は、正直わかったようで何だかよくわからない。孟子は「聖」と「智」という概念で何を言おうとしたのであろうか?
以下は私の憶測的な考えを書いてみる。そもそも「聖」の字には「耳」が入っているように元々の意味は「神の言葉をよく聞く(存在)」という意味であるという。一方「智」(知)とは「矢」(つらねる)が入っていて「神に言葉をつらねて語る(存在)」というのが元々の意味であったという。これを言い換えれば、「聖」とはいわば「他者の言葉をよく聞いてあげる知のはたらき」であって、「智」とは「他者に働きかけて説得する知のはたらき」だと解釈できないだろうか。孟子の言う「聖人」とは、この知力の受動的側面と能動的側面の両者を持っている存在だと想定されているのではないだろうか。
孟子は、本章で「智」を合奏の開始にたとえ、「聖」を合奏の休止にたとえている。合奏の開始を担当するパートは、外したら演奏全体がパーになってしまう。だから、技術的に最も重要であると言える。一方合奏を休止させるパート ― 西洋音楽ならば、多くはティンパニなどの打楽器が行なうことになる ― は、タイミングと力を見計らって一気に行なわなくてはならない。だから、場の流れを読んで決断する能力がいる。つまり「智」は高度な技能の習得が必要だが、独り歩きしても許される才能である。一方「聖」は全体に目をはりめぐらせて要点を抑えるカンどころが必要とされるだろう。孟子は、伯夷、伊尹、柳下恵の三者は卓越した才能はあるものの「時」つまりタイミングを計って全体を治める能力で孔子に一歩譲ると言いたいのではないだろうか?また孟子は「智」を射術の技巧にたとえ、「聖」を射術の力にたとえている。まず的に届かせる力があって、初めて技巧の意義が出てくる。政治に喩えるならば、政治にはもちろん専門知識が必要だが、それ以前に多様な意見や利害関係を一気にまとめあげる統率力というものが必要である。孟子は百官を一声でまとめあげ、彼らの専門知識を政治として成り立たせる力を「聖」として考えているのではないだろうか。それは、堯舜がいっさい実務に関与しなかったように、各人の意見や希望をよく聞いて、彼らに期待とやる気をもたせてあげるような能力なのではないか。
一方、老子思想は「聖」だけを顕彰して「智」を捨てよと批判する。もし「聖」を「他者の言葉をよく聞いてあげる知のはたらき」と考えて、「智」を「他者に働きかけて説得する知のはたらき」と考えたならば、そこから導き出される統治思想は、まさしく無為自然の放任思想となるだろう。つまり「智」をそれぞれ持っている各人にはやりたいようにやらせておき、「聖」を持つ聖人はその上に立って下々の「智」を聞くだけに徹するのだ。自分からは何もする必要はない。やりたい奴、言いたい奴にやる気にさせて各人に「聖人は私のことを聞いてくれる」と期待させるだけでよいのだ。もちろん聖人は、彼らの言うことなど一切取り上げず、個々の期待に沿うことなど何一つ行なわない。それが人の上に立つ聖人の狡猾な智慧である。
そのような無為自然の「聖」の中心に専制権力を置いて法を適用すれば、それは法家思想となるだろう。つまり世界の中心にいる君主は、富と位という甘いエサによって何もせずとも人を引き付け、権威と勢力という暴力によって自ずから人を震え上がらせる。明主はこのエサと暴力を法によって賞と罰に規定して、天下にわけへだてなく広めるだけで統治するのである。明主じたいは何も「智」を働かせない。各人が賞を目当てに「智」を売り込み、罰の恐怖で必死に働いた成果を受け取るだけでよいのだ。法家の描く明主もまた一方的に聞く立場であって、「聖」である。
「聖」と「智」に関する以上の考えは、あくまで私の憶測である。ただ、そう考えると我々が(おそらく無意識レベルで)持っている理想のトップ像が「聖人」と一致するように思うのであるが。つまり、有能で自ら仕事を行なう「智」の人材はリーダーになるべきでなく、リーダーは全ての人の意見を聞いてあげる(ような期待を持たせる)、「聖」の人材であるべきだという考えである。中国思想における「聖人」の秘密とは、「全ての人がめいめいの視点から何かを期待して、しかも自分では何もしない人」であるのかもしれない。
(2006.02.03)