招いた人材をどのように扱うべきか、を喩えで論じた章である。この章は、これまでの「偕(みな)と楽しむ」論や「国の者の意見をまとめて人事を行え」といった先の議論(梁恵王章句下、七)とは少々論点が異なる。これまでの章の議論は人の上に立つ君主が「人民の親」としてどのような心がけを持つべきか、を論じてきた。つまり配下の者を慈しむ仁の心のあり方である。一方この章での議論は、いかに人材の才能を尊重するか、という議論である。つまり政治を行うスタッフの(語弊がある言い方かもしれないが)いわば「人格」を尊重する礼の心のあり方である。この章は、次の公孫丑章句の各章の論議を先取りしているといえよう。
君主といえども仕事をさせる者を尊重しなければならない、という孟子の強い主張は、孟子自身が斉宣王に対して礼儀を要求した公孫丑章句下、二に表されている。同様に萬章章句下、七では魯の繆公(びゅうこう)と子思(しし。孔子の孫で、孟子の直系の師匠)との問答が引き合いに出され、繆公がわざわざ子思に会いに行ったことを自慢した言に子思がムッとして反論したエピソードを挙げている。また、告子章句下、十四では君子の出所進退のケースを列挙して、あくまでも仕えるかどうかは君子の意志次第であることを主張している。これらは全て、たとえ君主といえども正しい政治を行う道を知る賢者を下に置くことはできないことを強調しているのである。
『孟子』中で友人関係を正面から論じた数少ない章の一つである萬章章句下、三では、「自分が年長なのを頼みにせず、自分が身分が上なのを頼みにせず、自分に立派な兄弟などがいるのを頼みにしないで友と付き合え。友とは、その者の人徳を友とするのだ」と言う。そして孟子が友人関係の最高の模範として取り上げるのが、尭と舜の関係なのである。すなわち天下の支配者である尭がただの庶民である舜に最高の礼を尽して尊重したのを、「これが天子にして匹夫(ただの人)を友としたということだ」と言う。友人関係を律する倫理は「信」である。「信」は一方的な愛である「仁」とは違う、一定の距離を置いた相互信頼関係である。孟子は君主と賢者との理想の関係を、自律した二人の相互信頼関係と想定していたのではないだろうか。この尭と舜の関係はあまりにも大げさすぎて本質が見えにくくなってしまうが、つまるところそういうことを極端な例で示した物語なのではないか。
だがこのような君主と賢者の関係が成り立つためには、個々の君主の存在を超えた社会の正しい道(というより、宇宙の道理というべきかもしれない)が確実に存在して、君主といえどもその道に拘束されなければならないという確信があってのことに違いない。だから近代的な「雇用契約」とは少々様子が違う。近代的な「雇用契約」は雇い雇われる人間関係を「ただの商品」である労働力の売買契約として限定する制度であって、ゆえにその買い手が売り手の人格まで支配できないという結論を導き出す。一方、君主と賢者の関係は両者の人格を賭けた関係である。君主は賢者に心から礼を尽くし、賢者はそれに応えて天下のために心から尽力する。湯王と伊尹の関係であり、劉備と諸葛亮の関係である。
しかし結果的に君主に「招いた人材を思うがままに動かせると思うな」という戒めとなり、君主の命令が人間の心まで支配し動かすことはできない、という「人格の尊重」につながる可能性を秘めている主張だと思うのであるが。
面白いことに、韓国には李朝時代にソンビという「草莽で自律する士」の概念があったということだ。鮮于W(ソヌ・ヒ)氏
、司馬遼太郎氏ら日韓の六名で行われた座談会『日韓 ソウルの友情』(中公文庫)で、このように語られている。
鮮于 プライドですね。ソンビ道というのは、日本でいえば武士道でしょうか。
司馬 ”古武士の風”といったほうがいいかな。出処進退をきちっとわきまえた古武士のごとき人というのは、日本でもきわめて少ないですね。
同じ本の付録に付いている小辞典の説明で、ソンビとは「官職につかない学者をさし、より広くは学問と徳を兼ね備えた人、礼儀正しく慈しみのある人をいう。士といわれることもあり、文化人、知識人という表現では尽せない存在」だという。確かに『孟子』を読めば、その中から権力から自律した君子の理想像が浮かび上がって来るのだ。するとソンビは後世の中国の官僚や日本の徳川時代の儒者には(個々に例外はいたとしても、階層として)見られなくなってしまった、権力にも負けぬプライドの高い儒教の徒の理想を体現した人々なのかもしれない。ただしソンビの多くは清貧、というか極貧の人で、孟子の描く君子のように君主にすら礼を尽させる最高顧問のような栄光からは程遠い存在だったようだが。そのような官職につかないソンビたちの中から十八世紀ごろに「実学派」と言われる百科全書的な学問に着手する者たちが出現して、李朝儒教史に光芒を放った。多くのソンビたちも本音のところは舜のように位を譲られるのは無理としてもひょっとしたら伊尹のような宰相になる夢ぐらいはあったかもしれないが、現実は顔回のような生涯を過ごした貧しくよき人々だったのであろう(表面上は決して言わなかったはずだ。何せ「不義にして富み且つ貴きは、我において浮雲のごとし」[論語、述而篇]だから、、、)。
だが、同じ司馬遼太郎氏が金達寿(キム・タルス)氏と陳舜臣との別の座談会で指摘しておられるように(『歴史の交差路にて』講談社文庫)、そもそも儒教はプライドが高いゆえに労働を卑しみ商業を蔑視し、技術者や武人の価値を認めない職業観を作り上げる。頭を下げてサービスすることを「小人の業」として恥とし、経典の読書だけが正しい教養であるとするメンタリティーだ。
私思うに、中国の歴代王朝や李朝はなまじ儒教を正統としてその担い手の官僚たちに権力と俸禄を保証した。だから、儒者を甘やかせて上のような融通の利かないプライドの面ばかりを肥大させることになったのだろう。日本も徳川幕府は朱子学を官学として採用したが、幕府は新井白石・荻生徂徠・室鳩巣のような儒者の政治顧問を登用したものの、儒教の教養の有無によって政治を担当させるシステムをつくるまではさすがにしなかった。逆に伊藤仁斎の論孟読み直しに端を発して、石田梅岩の心学派や大坂懐徳堂の学者たちなどのようにむしろ一般人に向けた社会道徳として儒教を解釈する読み方が徳川時代後期に盛んとなった。彼らが『論語』『孟子』を社会に向けられた心の大切さを説いた書として読んだことは、儒教には「人間が誇りを持ち、自分の修養に努力し、他人とよく共感して上手につきあう」というプラスの面もありうることを示唆しているのではないか。明治維新後に福澤諭吉は『文明論之概略』の中で儒教を一笑に付したが、それは儒教のマイナス面だけを見た論議だったのではないだろうか。ただし、ネポチズムに甘く、女性を軽視する儒教の面だけは、現代社会にはどう解釈しても通用しないであろう。だが、儒教は決して権威への盲従をひたすらすすめる思想ではないはずだし、大衆を「小人」と蔑視する姿勢だけに終始する思想でもないはずだ。
(2005.09.23)