滕の文公との問答が続く。ここで斉に滅ぼされたとある薛(せつ)は孟嘗君(もうしょうくん)の父、田嬰(でんえい。斉宣王の弟)が後に封じられる地である。その土地を受け継いだ孟嘗君はこの地に「鶏鳴狗盗」の有象無象の徒を集めて徒食させた。それで、はるか後に司馬遷がこの薛の地に立ち寄った際の印象として「風俗が悪く、凶暴な者が多く、隣の魯や鄒(すう)の風俗とはぜんぜん違う。これらは孟嘗君の食客どもの子孫である」などと書き残している(『史記』孟嘗君列伝)
それは置いといて、この梁恵王章句に記載されている孟子の遊説順序には意図的なものがあるのではないかという気がしてきた。それは、以下の理由からである。
この梁恵王章句上・下は、まず大国の魏(梁)、斉の君主との問答から始まって、次に一転して弱小国の鄒、滕の君主との問答が置かれる。最後に魯の平公に遊説しようとしたが近臣臧倉(ぞうそう)の横やりで会見がとりやめになったエピソードを置く。そして孟子が「余が魯公に会見できなかったのは、天命なのだ。臧倉ごときの力で余が公に会うことを阻止できない」とつぶやいて終わる(梁恵王章句下、十六)。
この各国での遊説記で論述された内容の背後には、孟子の思想に基づく意図的な配列があるのではないか。
まず魏、斉という大国の君主に仁政のあり方を説き、これからの天下が取るべき政治の正道を展開する。
次に、鄒公との一章を橋渡しとしてみじめなほどの小国滕の君主との問答を置き、仁政の意義は国の大小に関わりないことが示される。大国は仁政によって容易に天下平定ができ、小国も仁政によって人民をなつかせればいずれは勝つ。だから仁者は無敵なのである。
最後に、孟子が魯公に会えなかったのは天命であるという。個々の人間の意思を越えた歴史を動かす力を予感させて終わる。
仁義の道は唯一の正しい道のはずだ。そうでなければ「大事なのは、仁義。これだけです」(梁恵王章句上、一)などと断言したりはしない。それは天の道にかならずかなっている。だから天は仁政を行う仁者にプラスに働きかけるはすだ。ところで「天は何も言わない。人の行動とその結果によって天命を示唆するだけだ(萬章章句上、五)。そして「天が見るのは、我が人民が見るのに従う/天が聴くのは、我が人民が聴くのに従う」(同)。つまり天の意志は地上の人の声となって顕現するのである。
ここまで見ると、孟子がなぜ国の大小にかかわりなく仁政を説くのかがわかってくる。仁政は人を愛し、人を慈しむ政治である。至上の善である「他人に配慮する」心が政治に表れたものである。それは必ず他人からの共感を呼び覚ます。そして地上の人が応援してくれる。これは変革を起こす潜在的なエネルギー源である。マルクシズムの唯物史観ならば、資本制経済が不断に成長させる「生産力」(Produktivität)である。君子はそうやって「創業すること、後世に続く手がかりを作ること」(創業、垂統)に専念すればよい。自分のため、自国のためではないのだ。世のため人のため、天下のために。どんなに小さな領土でも、逆境でも、大王こと古公亶甫(ここうたんぽ)のように仁者は人民を共感させ、教化する(梁恵王章句下、五参照)。やがて子孫に美風を伝えることができたならば、代を重ねるごとに人の声は共鳴して大きくなり、やがて文王・武王が現れて天下を取る革命となる。マルクシズムの唯物史観ならば、生産力の成長が蓄積した矛盾がついに「生産関係」(Produktionsverhältnisse)を変革するための革命を要求するのである。
(よくはわからないが、)孟子が魏、斉といった大国に赴いて遊説し、特に斉には長期間滞在していたにもかかわらず、今度は一転して小国の鄒、滕に向ったのは、大国では家臣の数が多すぎ群がり集まってくる論者や野心家のたぐいもあまりに多すぎるため仁政を説いても効果が少ないと見切った結果だったのかもしれない。孟子も王たちに対して会見できる機会が少ないことを嘆いている(告子章句上、九)。そこで滕の文公のような小国でも熱心に孟子の言を聞いてくれる君主の元に行った。そしてそこで語られる本章の前後の一連の文句は、魏王や斉王に向けて説かれた仁政の真髄を逆の面から照らし出すのである。君主がやるべきことはひとつなのだ。そしてそのことに地上の人は必ず応えてくれるはずなのだ。
世直しの革命が起こる原因について、孟子は「人が仁者に共鳴してくれる」ことに求める。天の神からの奇跡はない。エジプトを脱出したモーセたちのために紅海を割ってくれるような奇跡には期待しない(旧約聖書、出エジプト記)。世の終わりの時に七つの封印が解かれ七つのラッパが鳴り響いて地上は完全に一掃され、良き信仰の人だけが死んだ者も生きている者も救われるような全能の神の審きもない(新約聖書、ヨハネの黙示録)。仁政を行い他人を愛する仁者は人に支持され、蛮族にすら慕われ、敵軍すら武器を投げ出して帰順し、ついに不仁の者は孤立して紂王のように死ぬ。孟子がことさらに大げさに舜や文王の大徳を顕彰するのは、この世に「奇跡」(厳密な意味では「奇跡」でないが)を起こすのは天上の神ならぬ地上の「他人に配慮する」人だからである。
だが、そのような革命が「いつ」起こるのかは、天の時間の動きにかかっているのであろう。それは人間にはしかとはわからない。文王も自分の代で天下を取れなかった。だから、孟子は「余が魯公に会見できなかったのは、天命なのだ。臧倉ごときの力で余が公に会うことを阻止できない」と言ったのであろう(これが章句の最後に置かれているのは意図的であろう。実際に魯公と会見できなかったのが滕の文公の顧問時代の後だったのかは、わからないと思う)。人間にできることは、本章で孟子が滕の文公に語ったように、「創業すること、後世に続く手がかりを作ること」だけなのだ。滕の文公のように全くの絶望的な逆境にある人にも、天を信じて、人を信じて、自分が努力するようにとしか言わないのだ。人は君主の仁の心に必ず反応してくれるし、反応しなければならない。それが、孟子が戦国時代に説いた「福音」だったのであろう。
そうして後の滕文公章句では孟子が文公を指導して盛大な父の葬式を挙行させる。以前荻生徂徠を引き合いに出して考えた、具体的に人民を共感させて教化するための「先王の道」「先王の法」の制度的な実践例だ。やはり孟子も抽象的な心がけだけでは他人を感動させるには仕掛けが足りないと認識していたのであろう。この父の葬式をめぐる孟子と文公のエピソードはあまりにも「おもろうて、やがて悲しき」物語なので、またその章を検討するときに味わうことにしよう。
しかし、同時代の君主で唯一孟子の言を熱心に聞いてくれた滕の文公の国は歴史の中に埋没した。司馬遷すらも『史記』で取り上げてくれないほど取るに足らない国として忘れ去られたのである。『孟子』の中で滕の文公のエピソードが魏や斉の王にそう劣らないほど取り上げられているのは、『孟子』編纂者のこのドン=キホーテへのせめてものはなむけだったのかもしれない。『孟子』の記述がなければ、彼はまちがいなく後世忘れられていたであろう。唯一彼の仁政に地上の人が応えた声が、書物の形で残っている。
(2005.09.30)