盡心章句上
五
孟子曰、行之而不著焉、習矣而不察焉、終身由之而不知其道者、衆也。
孟子は言う。
「『それ』を行いながらはっきり自覚もせず、『それ』を学びながらきちんと理解もできず、『それ』に一生涯頼って生きながらも『それ』の道について知らない者が、とても多い。」
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『それ』とは当然のことながら、仁義の道である。孟子は告子章句での論争のように、人間にとって仁義の道は必然的なものなのだということを論敵に対して常々明らかに主張して回った。本章は、だから「人は気付かなくても、仁義の道を通っているのだ」という論敵への説得として捉えるべきではないだろうか。しかし本章の意味を「孔子や孟子を学習して、仁義の道を正規に学んでいる君子のほうが、善良であっても無知な一般人より優越している」と捉えたならば、独善的なエリートが出来上がるであろう(実際出来上がったようだ)。しかし『論語』には、このような言葉もあるのである。すなわち、
事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之學矣。
父母に力を尽して仕え、君主に身を粉にして仕え、朋友との交際では言葉に信を持つ者ならば、たとえ正規に学んでいなくとも私はその者を「学がある」と言うだろう。
(学而篇、子夏の言葉)
(2006.03.10)