離婁章句下
二
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子産聽鄭國之政、以其乗輿濟人於溱洧、孟子曰、惠而不知爲政、歳十一月徒杠成、十二月輿梁成、民未病渉也、君子平其政、行辟人可也、焉得人人濟之、故爲政者毎人而悦之、日亦不足矣。
子産(しさん)が鄭(てい。春秋時代の大国。戦国初期に韓に滅ぼされる)の政治を取っていたとき、彼の乗り物に人を乗せて溱水・洧水(しんすい・いすい。河南省にある川。シンは「さんずいへん+秦」、イは「さんずいへん+有」)を渡してやったという。孟子はこのことについて言った、
「その志は徳とするも、為政者の道がわかっていない。(冬が来る前に工事を始めれば、)十一月に仮橋ができて十二月には本橋も完成しよう。そうすれば人民が冷たい川を渉る憂いもなくなるではないか。君子たるもの公正な政治であるならば、工事のため一時的に往来を禁ずることだってやってよいのだ。どうしていちいち一人一人乗り物で渡してやることなどできよう。為政者たるもの、人民一人一人の歓心を個別に得ようとするならば、日が何日あっても足りない。」
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下章句の二つめの章で為政者と人民との関係が述べられているところに、離婁章句後半の大筋のテーマが表れている。鄭の名宰相、子産のエピソードを引き合いに出して、孟子が加えた批判である。
子産は、春秋末期すでに晋と楚の二大国の間に挟まれて衰勢に入っていた鄭の宰相となって、各国でその徳と博識が賞賛された人物であった。孔子の同時代人であり、孔子は子産に兄事していたという。鄭は子産の名声によって、最後の輝きを見せたのであった。彼の死を聞いた孔子は、「彼は、古の遺愛(いにしえのいあい。いにしえの徳をまだ保持していた人)であった」と泣いたという。子産の死によっていよいよ鄭国は衰退を早め、戦国七雄の韓に滅ぼされた。
ところで、鄭国の歌謡の「鄭声」と言えば、淫奔下品な歌と批評されている。孔子の批評は鋭い。
紫の朱を奪うを悪(にく)む。
鄭声の雅楽を乱るを悪む。
利口の邦家(ほうか。国家)を覆(くつがえ)すを悪む。
(『論語』陽貨篇)
社会から純朴さが失われていって、純粋色の朱が混合色の紫に押しやられ、高貴な雅楽が下品な鄭声に乱され、そして小利口な才子が国家を転覆しようとする。保守主義者孔子の嘆きである。孔子には、鄭国の文化は純朴さから離れたもののように見えたのだ。たとえば、『詩経』鄭風のこのような歌。
蘀兮蘀兮 風其吹女 叔兮伯兮 倡予和女 |
木の葉は、木の葉は 風吹けば舞う おじさん、にいさん 私を誘って、ついていくよ! |
蘀兮蘀兮 風其漂女 叔兮伯兮 倡予要女 |
木の葉は、木の葉は 風吹けば漂う おじさん、にいさん 私を誘って、あなたのものよ! |
(『蘀兮』(たくけい。タクは「くさかんむり+擇」)
よく言えば自由奔放で先進的な文化である。このような文化の先進地域の鄭国から孔子の慕う子産が現れたのが面白い。精神の昂揚した社会だったからこそ、驚くべき流行も現れれば徳行に優れた賢者も現れたと考えたほうがむしろよいのかもしれない。
さて、そのような子産を孟子は「その志は徳とするも、為政者の道がわかっていない」と批判する。なぜ橋を架けないのか。そのために一時的な不都合があっても、その決断をすることこそが真の仁政ではないか、と孟子は言う。いわゆる「公共の福祉」論そのものであって、現代人にも大変わかりやすい。だが、このような議論をするあたりが、孟子が真の保守主義になれないところである。孟子は「公共の福祉」のためならば公共事業はどしどし進めるべきだと考えている。だが進歩的事業のために伝統が破壊されて社会が画一化されていく危険があることは、現代の日本社会を見ればすぐにわかる。二十年前はコンビニエンスストアーなど都心部にしかなかった。今や田舎町ですら数件ある。京都の古い家並みは、この二十年で大幅に減少したという。地方ごとの方言の差は急速に減少している。昔は京都弁、大阪弁、神戸弁、河内弁、和泉弁ははっきりとした差があった。今や一つの関西弁になってしまい、しかもアクセントがだんだん関東弁に近づいている。
孟子は斉の宣王が最近のはやり物が好きだということを肯定して、「現代の楽しみも、いにしえの楽しみも同じことなのです」と王に言った(梁恵王章句下、一)。要は仁政を行なって人民と共に「偕(みな)と楽しむ」のが大事であって、王が何を趣味としているかは倫理的に重要でないと主張したのである。伝統そのものを重視するよりも、抽象された倫理性を重視する姿勢がそこに見て取れる。孔子の「鄭声の雅楽を乱るを悪む」という嘆きを、後輩の孟子はあまり共有していないようである。素朴な時代は終わったのだ。いや、保守主義者孔子が現れたことじたいが、春秋時代末期の社会がもはや素朴な時代ではない複雑な社会となっていた証拠に違いない。
《次回は離婁章句下、三》
(2006.01.04)