公孫丑章句における心の分析の核心が、本章と次の第七章である。後に孟子が自在の進退を確信を持って行う姿が描かれるが、その根拠がこの二章にある。
この章で説かれている説は、いわゆる「性善説」の基礎を成すものだ。すなわち惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの心が「四端」つまり善の四つのはじまりとしてすべての人には備わっているとされる。それを伸ばせばそれぞれ仁、義、礼、智の徳へと展開する。だから人間は努力さえすればいくらでもよき人になれるのだし、舜や文王のように天下にその名をとどろかせる巨人にもなれる可能性がある。逆に言えば、人間たるものそれを目指して常に努力するべきである。志ある者に「切磋琢磨」(『論語』、学而篇)を勧める教えである。同時に「努力なしではよき人となる資格はない」という教えでもある。ただしその努力は書物を読む学問しか道がないわけではないはずだ。
仁、義、礼、智の定義については宋代儒者や伊藤仁斎、荻生徂徠を始め徳川時代の儒者たちが散々言及している。私は勉強不足でそのことごとくに当たってここで詳説する力がない。例えば伊藤仁斎は仁について、『論語古義』の里仁篇「子いわく、いやしくも仁に志すときには、悪(にく)まるることなし」について、
仁は具体的な徳である。仁に志しさえすれば、心もちはゆったりねんごろで、人をいつくしみ、他人といさかいをしないので、自然ときらわれることはないのである。
(貝塚茂樹による現代語訳)
と言っている。一方荻生徂徠は『弁道』『弁名』で、
― 仁とは、君主の人徳のことである。
と言うにすぎない。研究者それぞれの「読み方」によってここまで定義が変わる。私もまた以下で私なりに一応仁、義、礼、智の四つの徳について検討してみるが、いずれ稿を改めて試みに西洋の他の思想化との対比によって間接的にもやってみたいと考えている。だが四書の『中庸』の内容とこの四端説を絡めた朱子の「性」の分析については、私は取り上げない。その能力もないし、またその意欲もない。
本章で定義される孟子の「四端」について検討しよう。惻隠、羞悪、辞譲の心はいずれも他人に向けた心であることをまず指摘しておきたい。そして是非の心は外の世界と内の自分の両方に向けた心である。
ここで、この「四端」が人間的徳を作り出すための関係を、(何度も取り上げることになるが)『論語』最後のこの言葉を使ってアプローチしてみたい。すなわち、
不知命、無以爲君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也。(尭曰篇)
天命を知らなければ、君子となることはできない。礼を知らなければ、人の世に立つことはできない。言葉が理解できなければ、人を知ることはできない。
惻隠の心を「愛」「慈悲心」、羞悪の心を「正義感」「気概」と考えれば、儒教のみならずギリシャ思想、ストア哲学、キリスト教、大乗仏教などにも共通の徳目であって、人類の智者たちが皆指摘したものと同じである。そしておそらく儒教の「仁」「義」は他文化の倫理のそれらと大きく変わらない。確かに「仁」はイエス・キリストや大乗仏教の菩薩のような無差別の愛ではない。孟子じしんの言葉では「親を親しむは仁なり」(盡心章句上、十五)「親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す」(盡心章句上、四十五)「仁者はその愛する所をもってその愛せざる所に及ぼす」(盡心章句下、一)などと言うように、自分の身内から始まって見知らぬ他者にまで届く愛のことである。超越的なところから下される掟としての愛ではないから、こういう構成を取るのであろう。実践的には、キリスト教の「隣人愛」がいつでも、どんなときでも、誰にでも等しく行うべき愛であるのに対して、儒教の「仁」は、高い位にいなければ全ての人に及ぼす必要はない(離婁章句下、三十)。これを墨家の非難のように卑怯と見るか、それとも無理のない愛と見るか、その相違はまた稿を改めて孟子とパウロとを比較する際に再度考えてみたいと思う。とにかく今のところは儒教の「仁」もキリスト教の愛や大乗仏教の慈悲と同じ他者に向けられた配慮の心である点についてだけは変わらないとしておこう。
儒教に独特のものがあるとすれば、それは辞譲の心であろう。辞譲の心を伸ばせば「礼」となる。そして孔子は「礼を知らなければ、人の世に立つことはできない」という。「目上の人に一歩譲る」社会関係のあり方を知らなければ人間は他人と共にいることはできないというのだ。尭舜のように偉大な人間になる第一歩もまた、親に譲る「孝」と年長者に譲る「悌」だという(告子章句下、二)。
これは対等の人間同士の「契約」を元にした西洋(特にアングロサクソン)社会での社会関係のあり方と、鋭い対比がある。ばらばらの「個」同士は、何の取り決めもなしに共に立つことはできない。そこで仲立ちをして権利とその範囲を定める「契約」を交わすことによって、初めて両者がサービスを提供することができる。「契約」と訳される英語の contract が動詞で使われると「つなげる」という意味と同時に「縮約する」という意味があるのは、西洋の「契約」にはどんな意義があるのかをよく示している。そして西洋の「契約」はもともとは「神聖なものに誓って契約の範囲内で誠実に行動する」という中世都市で発達したモラルに由来するものであったに違いない。今でもアメリカ大統領が就任の宣誓をするとき聖書に手を当てて行うのは、神聖な神への誓いを仲立ちにして誠実が地上の他人にも納得できるものとなる事情を、端的に現している。
儒教の「礼」もまた、ばらばらの「個」同士をつなげる西洋とは別のあり方だったのではないか。それは決して「個」を無視した社会への屈従を意図したものでは(本来は)ないはずだ。
君子和而不同。(『論語』、子路篇)
君子は他人と和するが、同調しない。
付和雷同しないためには「個」が必要である。孔子が学習による自己向上を強く勧めたのは、「個」が学ぶことによって適切な社会関係を知るべきことを説いたことではなかっただろうか。
君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫。(雍也篇)
君子は文献を広く学んで、その成果を礼の原理で集約すれば、まちがいはないはずだ。
恭而無礼則労、慎而無礼則葸(くさかんむり+思)、勇而無礼則乱、直而無礼則絞。(泰伯篇)
うやうやしくても、礼に従わなければ苦労ばかりで効果が出ない。つつましやかでも、礼に従わなければあちこち無駄な気苦労を重ねるだけだ。勇気があっても、礼に従わなければ勝手に無茶苦茶暴れるだけにしかならない。正直でも、礼に従わなければ相手を追い詰めて無用の遺恨を残す。
うやうやしいこと(恭)、つつましやかなこと(慎)は相手のことを考えているという意味では惻隠の心の表れであり、また勇気あること(勇)、正直なこと(直)は羞悪の心の表れであろう。だがそれらが学習による「礼」、つまり他人との上手な距離の置き方に沿ってなされなければ、せっかくの善意が効果を出さない。だから、『論語』最後の言葉で「礼を知らなければ、人の世に立つことはできない」と言うのである。つまり「礼を知る」ことによって人は仁義の適切な発揮の仕方を知るのである。だが適切な仁義の発揮の仕方を「礼」によって知ることは、まだ自分の社会での位置付けを知ったことにしかならない。その次には「言を知る」すなわち他人の言葉を知る必要がある。これにもまた経験と学習による知識が要るであろう。そして自分の社会での位置付けと他人の言葉を知ったとき、自分がこの世で何をなすべきなのかを見い出さなくてはならない。それが「天命を知る」である。このとき、人間は自分を限定することを知り、なすべきことの範囲を知り、そして天命を楽しむ「楽天」の境地に至ることになるだろう。それは限定された自分であるが、かえってなすべきことがはっきりして自由となった自分である。ここまでに至るのは遠い。したがって、人間ならば誰でも持っている「惻隠」と「羞悪」の心を、「辞譲」の心を伸ばして「礼」に従うことによって社会に通用する形を持った「仁」「義」となす。そういった自己を形作るために「是非」の心を経験と学習によって大きく伸ばし、「智」をもって「礼」を知り、他人の言葉を知り、さらに天命を知る。そうやって人は完成する。『論語』最後の言葉と孟子の本章の説とを橋渡しすると、以上のように解釈できるだろうか。あくまで私の解釈である。
さて、「礼」のルールの基本は「辞譲」の心、すなわち「目上の人に一歩譲る」心であるという。そして孟子はそれが人間の本性であるというのだ。つまり、「目上の人はえらい」という感覚は人間にとって本質的なものだと主張する。
この部分は異論が多いだろう。じっさい後の世代の儒家である荀子はいわゆる「性悪説」を唱えて、「礼」は本来欲望的存在である人間を外部から矯正して善に持っていくための「偽」すなわち作り物の制度であると言い切る。また福澤諭吉は君臣の関係などは人類普遍の人間的道理では全くないことは西洋を見れば明らかであると言って、「礼」が人間の本性の現れであると主張する儒教を攻撃した。
「礼」が人間の本性の発露なのであるか否か、あるいは目上の人への「辞譲」の心の展開だけにしか「礼」のあり方はありえないのかという問いはもちろんなされるべきであろう(たぶんそうではない)。だがしかし、どんな形であれ「礼」が人間の社会関係にとって必要であるか否かについては、「個」を認め、「人は本質的にばらばらでそのままでは協同できない」という冷厳な事実を受け入れる以上は、異論の余地はないものだと私は思う。西洋の契約もまた形を変えた「礼」の様式ではないか。そして「契約」の伝統がない北東アジア社会では、他人との間を contract (つまり、つなげて、かつ権利義務を縮約)するために何らかの「辞譲」のルールに基づくのは社会的知恵であったし、今でもそれ以外の道を取るのは社会の根本的変化が必要なのではないかと私は考えるのである。
私は基本的に自由主義者であると思っている。上司・先輩・国家への「目上の人はえらい」一本槍の屈従は決してあるべきではないと考える。だが、何らかの「礼」のルールがなければ「個」を保ったまま人は他人とつきあえないし、そうなればばらばらに孤立するだけとなる。そしてそのことの最も恐ろしい結果は、ばらばらの個人が求めてやまない「友愛」への衝動があらわとなって、あえて個を抹消して全体に帰還しようとするファシズムが勃発することだ。そしてもうファシズムの兆候は、この国にひそかに見え始めていると私は見る。一方で「自己責任」などと言いながら、「自己責任」の論理を使うならば子供とは無関係の他人であるはずの親の責任を、レポーターが破廉恥にも追及しようとする。そしてそれに親族がしゅんとして「申し訳ない」などとテレビで会見する。自分たちが「世間に配慮する」心にしか善の根拠を見い出せないゆえに親も子も親類もいっしょくたに「世間知らず」として非難する基本的傾向を持っていることに気付かず、西洋から言葉だけ借用した「礼」を表面的に振り回していることに気付いていないのである。知らずに使うのは、知って使うよりも悪い。「他人に配慮する」心には、それに相応した「礼」の体系があるはずだ。それがほとんど崩れてしまっているところに、われわれの社会の空洞がある。
私は自由主義者と言ったが、自由は制度によって守られなければならず、真空の状態での自由などありえないことも理解しているつもりだ。だから国家や社会には一定の貢献をしなければならないことも了解する。だが、「個」と社会的貢献の間のルールとしての「礼」を明らかに見出さなければ、結局孤立した個人の「友愛」への衝動を野放しにして、やがては自由もなくなるだろうと考える。「契約」を人間界の基礎とする西洋社会でも、人はそれに満足できずに「友愛」によって自他の区別を解消したい衝動に時として駈られて痙攣を起こすことを見るべきだ。第一次大戦初期の熱狂がそうだ。ナチスがそうだ。マッカーシズムがそうだ。六十年代の学生運動の盛り上がりだって、主義主張はまっとうであったとしても、その本質はそれだ。「個」があらわになった社会は、いつでもそのように「個」から逃げ出したい衝動を隠し持っていることを認識すべきなのだ。それに抵抗するには、人は一種の「あきらめ」がいるに違いない。つまり、「個」は「個」のままで他人と一定の距離を持つのが掟であり、かつ一定の距離を持って他人と関係を結ぶには、定まったルールに従うのがもう一つの掟であるという「あきらめ」である。
ならばどうすればよいのか?今さら君臣父子の道徳を復活させることなどするべきでないし、会社への一方的な忠誠心などもう時代に合わない。何よりも「礼」は個々人の努力ではどうにもならない、社会的制度である。自分が「礼」に従って行動したところで、相手がその「礼」を了解して返さなければ「礼」の徳は成立しない。荻生徂徠が「礼」を聖王の制定した神聖不可侵の制度であるとみなして超越的なところに持っていった洞察は、やはり正しい。
だからパッシヴな意見かもしれないが、われわれには「他人に配慮する」心の衝動が内に秘められていて、世間の中にしか善を見出せない傾向があることを知ることによって、逆に「他人に配慮する」心を内に飼いならすことができるのではないか。そして「他人に配慮する」心 ― 孟子の言葉では惻隠、羞悪、辞譲の心 ― が内にあることを知れば、後は「個」を守りながらそれを上手に発揮する方法をめいめいが見出していくように「智」を働かせるしかないのかもしれない。もしすでに「礼」が崩壊しているならば、社会全体を救う処方箋はたぶんない。「礼」はすでにあるものを見出した制度であって、過去の積み重ねゆえに一から人為的に作成することはできないからである。だから個人が社会あるいはもっと大きな天下に開かれた心を持ちながら、しかも付和雷同しないための確信を持つのが精いっぱいだろう。そしてめいめいがめいめいの状況でとりあえず自分にとってベストの「礼」を実践するしかない。それがこの社会での自由の道だ。今の私が言えるのはこのぐらいだ。
最後に、「性善説」と「性悪説」について少々。孟子は本章で言うように、人は誰でも惻隠の心を持っている以上は仁の心を伸ばせる資質があると考える。こういった孟子の考えは「性善説」と言われて、よく荀子の「性悪説」と対立したものと説明される。だが、この「性善説」と「性悪説」とが対立するものであると主張したのは当の荀子であって、しかも荀子の主張とは裏腹に、実は両者は必ずしも対立したものではない。孟子は人間には善の資質があると言っているだけで、努力しないとその資質は発展しない。一方荀子は生の人間は欲望的存在だと言っているだけで、実は善でも悪でもない。そしてそれを「礼」を教えることによって善に伸ばさなければならないと主張するので、結局孟子と何ら変わりがない。両者の相違点は、孟子が個人の努力に力点を置くのに対して、荀子がトップダウンで教導する君主の制度づくりに力点を置くことである。そこには前も言ったが、両者の置かれていた時代背景があると思う。孟子は紀元前四世紀の先の見えない戦国時代真っ只中で思索を行ったがゆえに、原理論的であって個人の主体性を重んじた。一方荀子は紀元前三世紀半ばの秦の勝利が見え始めた時代で考察を行ったがゆえに、応用論的であって具体的な制度を重んじた。ひるがえって日本では、社会の中の人間関係に注目した伊藤仁斎が政治の中心から遠く離れた、繊細な文化と伝統ある商業の中心であった十七世紀後半の京都で思索を行ったのに対して、苟子の思想に近い制度的考察を行った荻生徂徠が政治の中心で、まだまだ粗野であるが発展の兆しが見え始めた十八世紀初頭の江戸で論陣を張ったことが、彼らの思索に何がしかの背景を与えたことは否定できないのではないだろうか。
(2005.10.20)