初めに断っておきたい。当初、公孫丑章句上の末尾でパウロと孟子の比較を『ローマ人への手紙』を元に孟子の仁義礼智の倫理体系と比較する計画を立てていた。だが、これは軽々に取り組めるテーマではないことがだんだん自分で判明してきたので、取りやめにします。そこで、本稿は儒教の仁についてテーマをしぼって、キリスト教の隣人愛と比較しながらのコメントにしたいと思います。
有る人がエルサレムからエリコに下っていく途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通っていった。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通っていった。ところが、あるサマリア人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人となったと思うか。
(『ルカによる福音書』より)
有名な、「よきサマリア人」のたとえである。上のイエスの問いに対する答えは、もうわかっているだろう。「あなたも行って同じようにしなさい。」
「よきサマリア人」の行動は、まさしく孟子の惻隠の心のあらわれである。惻隠の心は仁のはじまりだ。ならばイエスの教えと孟子の教えは一緒なのか? ― だが。
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう、そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたのところに参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう。『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう。『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
(『マタイによる福音書』第二十五章より)
「誰にほどこすべきか」「誰に情けをかけるべきか」という区別は、こうして吹っ飛ばされる。己の情愛の大小で情けの差別を設けるような孟子の道は、全能の神の前では通用しない。自分でも思い出せないような、知らない誰かにほどこした善行は神の帳簿にことごとく記録されているという。悪行についても同じ。
「自分がほどこしたいから」「自分がかわいそうだと思うから」というところからスタートするのは一緒かもしれない。だが、孟子は「自分の親を敬う心を他人の親にまで及ぼし、自分の子供をいつくしむ心を他人の子供にまで及ぼせ」(梁恵王章句上、七)というコースを説く。一方イエスは「よきサマリア人のようにせよ」と説く。サマリア人とは当時北部パレスチナに住んでいた住人で、バビロンから苦難の末帰ってきたユダヤ人本流から蔑まれていた。そんな敵対関係にあったサマリア人が瀕死のユダヤ人を助ける姿に倣えというのだ。これが隣人愛である。隣人愛は孟子においても可能性としてはあるが、掟としてはない。
もともと隣人愛の律法は、『レビ記』第十九章第十八節の「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」に由来する。これはただの教訓でもなければ地上の権力が制定した法でもない。これは律法であり、神から下された戒めである。だから、「あなたは姦淫してはならない」(『出エジプト記』)などと同じく必ず守らなければならない。イエスも「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(『マタイによる福音書』第五章第十七節)と言う。イエスはそれを本気で実行せよと命じに来たと言うのだ。そのため、「殺すな」「姦淫するな」「いつわって誓うな」「隣人を愛せ」といった基本的な律法を恐ろしく厳格に解釈して誰も実行できないところに持っていく(同、第五章二十一節以降)。そのイエスの鋭い指摘を受けて心の内を反省するならば、とても実行できそうにない自分に気付く。そのために起る引け目をパウロは表明する。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしたちではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。
(『ローマ人への手紙』より)
守らなければならない律法を守れないという認識から罪の意識が生じ、正しさを求める心が信仰に導くのだろう。かくして(おそらく本来の)キリスト教は、自然な情を罪とみなしてひたすら自分を神の道具とみなす信仰となる。だが依然として地上にいるかぎり人間は肉の存在なのだから、常に肉の誘惑に転ぶ危険がある。だから信者には不断の努力義務が出るだろう。信仰によって自然な情がなくなるのではなく、自然な情を常にのりこえるのである。パウロは自然な情に心を痛める自分の内を表明している。
わたしはキリストによって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかししている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。(同)
パウロは改宗者である。そのため昔の同胞と袂を分かっている。その苦しみである。だが、主に召された以上は、主の意志に従わなければならない。なぜなら主にとって、誰を救うか誰を救わないかも自在であるからである。自分の広める福音に同胞が振り向いてくれて救われることを望むだろうが、救われない予定にあるのならば断腸の思いであきらめるしかない。身内への情は封じられて、律法としての隣人愛が倫理的決意として置かれる。
だが、本当は「自分の親を敬う心を他人の親にまで及ぼし、自分の子供をいつくしむ心を他人の子供にまで及ぼせ」という教えだって、孟子の主張とは裏腹に難しいはずだ。きっとそれには一つの決意が要る。その決意をできるのが孟子の言う君子であり、最も大きな決意をなしたのが歴代の聖賢たちなのであろう。セネカの言う賢者と同じであり、放っておいてなれるものではない。殷の湯王を助けた伊尹は、孟子の言によると、「天下の人民一人といえども尭舜の正道の恩恵をこうむらないものがいれば、自らをせまい溝の中に押し込めるがごとく苦しむ」決意をしたという(萬章章句上、七)。これが自然な情の延長だろうか。俗世の快楽にからみ取られている梁の恵王とか斉の宣王に、こんなことができるだろうか。孟子は「難しくない」というけれど、伊尹のようになるには自然な情を越えた飛躍が必要なのではないか?
もっとも、孟子の聖賢やセネカの賢者は自分の中に善の根拠を持っているから、「賢明に生きよ」という教えで踏み止まる。もとより偶然から得られる快楽にとらわれるべきでないし、さらに進んで義のために命を捨てる事だって覚悟すべきであろう(告子章句上、十参照)。だがパウロや墨家のように、自分の外にある義のしもべとなって自分を(パウロの用語では肉を)何一つ大事と思うなという教えまではいかない。あくまで「自分をいかによく生かすかを考えなさい。その自分をできるだけ伸ばしなさい」という勧めで終わるだろう。その分だけ受け入れやすいとも言えなくもない。
太宰治の『右大臣実朝』では、将軍源実朝は俗情にとらわれない為政者を目指そうとした貴公子として描かれている。大身の三浦家であってもその不手際を厳しく責め、巨大な外戚である執権北条家の御曹司(北条朝時)のスキャンダルに対してすら厳格な沙汰を下す。鎌倉追放という厳罰だ。一方で相模川の橋が破れかかっているのを因縁がある不吉な橋だからそのまま放っておこうとか言う重臣の意見に対して、何事も多くの庶民のためと即座の修理を指示したりする。その実朝が、東下してきた鴨長明と対談した後に、この風流僧についてこうつぶやいた。
信仰ノ無イ人ラシイ
太宰は、為政者実朝の中に信仰を見ている。地上の俗情を越えた飛躍である。儒教倫理から言えば、外戚(朝時は実朝のいとこ)に冷酷な沙汰を下す実朝は不仁であり、孟子ならば「愛すべき者を愛せない者など愛さないものを愛せるはずがない」とでも非難するだろう(盡心章句下、一参照)。だが信仰があり、何事も多くの庶民のための政治を意志していたからこその不仁であったと太宰は描くのである。太宰は孟子の主張とは少しく違う為政者の姿を描く。
どうなのだろうか。孟子の君子聖賢という存在もまた、自然な情をそのまま伸ばしたのでは本当は決してないのではないか。むしろ倫理的決意を持って、あえて自然な情の延長であるとされる仁義礼智を行動原理として選択した人々なのではないか。舜が親や弟をあくまで情をもって大事にしたのは、自然にそうしたのでは決してなくて舜の倫理的決意でそうしたと解釈すべきなのではないだろうか。「地上の存在から善を導くならば、そこを始まりとしてしか善はない」という強い決意を舜の行動の背後に読み取るべきではないか。ならば君子聖賢の道は、他の宗教と同じく飛躍を必要とするだろう。あえて「身内から初めて、段々に天下にも仁の心をほどこす」倫理を選び取る。選び取った者は、おそらく孤独に世間と向い合う魂を持つことになるのではないか。儒教の君子も、ある意味でキリスト教の篤信の徒と同じく孤独な魂の戦士なのであろう。とても梁の恵王や斉の宣王などの俗情に留まったままの君主が、自然に持てる魂ではない。
歴代中国の君主で最も天下の政治に配慮していたのは誰か、という問いにはいろいろな答えがありうるであろう。その中で最も近年の君主としては、おそらく清の雍正帝(ようせいてい、1678 - 1735)を挙げることができるだろうか。彼は最高権力者として本気で仕事をしようとした、奇特な君主である。いや儒教道徳から言えばそうでなくてはならないのだが。だが、雍正帝は本気だったからこそ、情実政治から程遠かった。それが儒教的見地から見ると仁の心に欠けていると見られたようだ。
宮崎市定『雍正帝』(中公文庫)には、雍正帝の官僚どもに対する厳格無比な姿勢が描かれていてなかなか痛快である。帝は地方官から上奏される奏摺(そうしょう)という報告書を最も重んじた。本来この奏摺は総督・巡撫(いずれも省長官)という大官が皇帝に上奏するものであるが、帝はこれを省の属官や知府(府知事。各州の主要都市の長官)にまで上奏権を与え、かつ義務付けた。これを帝はいちいち精読し、自ら朱筆で意見と指示を書いて返した。このシステムを硃批諭旨(しゅひゆし、「しゅ」は石へんに朱)という。帝と官僚とのこのやりとりは帝自らによって出版されている。自らの公正無私さを天下に見せて、自分の評判の悪さに対抗したかったのだろう。宮崎氏はそれらの中から帝の怠慢な官僚どもに書き送った様々な罵倒の言葉を取り上げている、たとえば、
「迂闊」、「不忠不誠」、「不学無術」、「無知の小人」、「老姦巨猾」(年寄りの極悪人でとんでもない悪賢い奴)、「木石の如く無知、洵(まこと)に人類に非ず」、、、
などなどである。何とまあ仁愛を旨とすべき君主の言としては口汚いが、それだけ真剣だったのだろう。そして帝は真剣さを空回りさせないだけ有能であったし、かつ清朝の政体もまだ若かった。次の乾隆帝(1711 - 99)の時代が清朝の大きな円熟期でありかつ行き詰まりの始まりであったが、その長い治世の土台を提供したのはまさしく父の雍正帝であった。国政に対する真剣さがあった点では明朝最後の皇帝、崇禎帝(1611 - 44)もそうだったようだが、なにぶん崇禎帝は周囲が明朝の腐敗によどみに澱んでいて、とてもそれを打ち破ることができなかった。加えて明王室の朱家に代々流れていた血なのか猜疑心が強すぎて、良臣を失ってしまった。
だが、雍正帝は人気がなかった。官僚に対する冷酷さもさりながら、自分の兄弟たちにも目をかけなかった。孤独な独裁君主であったのだ。彼はキリスト教を弾圧し、宗教的背景は特にあったように見えない。だが、統治者としての倫理的自覚は強くあったはずだ。そしてその姿は仁愛あふれる儒教的君主のイメージから程遠い。それが漢人官僚たちには(心の中で)嫌われたようだ。だが、統治者として倫理的に真剣であったならば、太宰の描く実朝のように周囲から超越する心にどうしても向わざるをえなかったのではないかと私は思う。それゆえ冷酷で時に弾圧政治を行ったが、統治は一応ひきしめられたようである。結果を出す政治と民心を安定させる政治は、もちろん両方行われるに越したことはない。だが、両方行えるような為政者が両方行えるような状況で政治を執れる機会は、孟子の主張とは違ってあまりにも少ないのだろう。
宮崎氏は、中国の専制君主制というものは柔軟にも時々雍正帝のような明君が出て君主制を引き締め、無言の大衆の信頼をつないできたと言う。その結果として、
独裁制に信頼する民衆は独裁制でなければ治まらないように方向付けられてしまった。これは中国人民にとってまことに悲しむべき結果である。この点から言えば、雍正帝の政治は正に善意にあふれた悪意の政治と言わなければならない。
と評する。雍正帝の孤独な戦いも、中国の絶対君主制の害悪を存続させる栄養分にしかならなかったということだ。しかしもしそれを乗り越えようとするならば、歴代の儒家が軽視してきた法家的制度への着眼が必要となるのであろうか。前にも検討したが、法家的制度の理念は「酷薄」ではなくて、「無私」ともニュアンスが違う、「間人間的」というべきものだ。