本章から離婁章句となるが、前回言ったように、本章句は全章を読まずに抜粋してコメントすることにする。
滕文公章句末章で、君臣父子の秩序を忌み嫌って独り清廉であろうとする陳仲子が攻撃された。本章句は、それでは儒家のいう正しい基準とは何かということを明らかにしようとするものである。
「今、仁の心があり、仁の人だと評判もあるのに、人民がその恩恵を受けず後世の模範ともならないようならば、それはいにしえの王の道を行っていないからだ」と孟子は言う。その「いにしえの王の道」とは?
孟子は言は礼楽に及ばずといへども、然れどもそのいはゆる「人は以って尭舜たるべし」といふ者も、またただ「堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行ひを行ふ」ことを謂ふのみ。必ずしも聖人となることを求めざるなり。後儒すなはち二子の言ふ所以の意を察せず、妄意に聖人となることを求む。(荻生徂徠『弁名』より)
《現代語訳》孟子は言葉の上では礼楽の制度について語らない。だが彼の言う「人はだれでも堯・舜になれる」(告子章句下、二)というのも、それは「堯の服を着て、堯の言葉を暗誦し、堯の行動をなぞる」(同)ということにすぎないのだ。必ずしも聖人になることを求めてはいない。後世の儒家は、孔子・孟子の言うところの意味を理解せず、みだりに聖人となることを求めている。
荻生徂徠は、孟子の真意をこう読み解く。堯舜の道に則るというのは、何も仁・義・礼・智の徳を修養するなどといったところにあるのではない。それは、いにしえの聖王たちが作った制度を学んで身に付けるところにだけあるのである。なぜならば聖人の智徳は卓越したものであったから、それが人間のために創設した礼楽の制度は必ず人間の道理にかなったものであるはずだからである。以前引用した徂徠の『弁道』を再出すると、
それに、先王が天下の法政の規準を作り、人間が生活をする規範を立てるためには、もっぱら礼に依存した。智者は考えることによってそれを理解しうる。愚かな者はわからないが、礼に従う。賢者は上から礼へと向う。賢でない者は背のびをして礼にとどこうとする。何か一つのことをし、一つの発言をしようとすることがあれば、礼に照らして考え、それが先王の「道」に合うかどうかを知る必要がある。だから礼という言葉は、具体的なものである。先王の「道」の具体化されたものである。
(第二二章より。前野直彬訳、中央公論社『日本の名著16』から引用)
このような徂徠の外的装置として倫理制度重視論を、子安宣邦氏は「徂徠の展開する〈礼楽論〉は、、、、身体的というべき〈人間的自然〉に根ざした〈教化論/学習論〉を前提にした高い意味での治術論的な議論のレベルから、文化・習俗・儀礼・法制度を包括する文化的・社会的体系をめぐる議論、すなわち先王による制作というフィクショナルな契機を含みながら、しかし客観的な実在としての力をもった文化的所産をめぐる議論」(岩波書店『江戸思想史講義』第6章より)と評価されている。
そのような徂徠の指摘もまた、もっともであろう。「いにしえの王の道」とは総合的な文化制度の束としての「礼」であるはずだ。前章でも言ったように、「礼」は人間個人の力で作りあげることができない社会全体の産物である。人間が他者へ向ける根源的な衝動である惻隠・羞悪の心は、「礼」という制度的フィルターを通してはじめて他人に通じる「仁」「義」の徳へと昇華することができるだろう。「礼」とは本来つながることができない他人との関係をつなぐ ― いや、つないだつもりにさせるというべきだろうか ― ための「何ものか」であるに違いない。ならば、我々現代人も気付かないうちに何かしらの「礼」の制度の中に包まれて生きているはずなのだ。私は、人間の第二の自然というべき「礼」には、おそらく古今東西の偉大な功績を作った社会にとって活力の源泉となった秘密の仕掛けが隠されているような予感がする。
だが、これから始まる離婁章句は制度論ではない。あくまでも個人が持つべき倫理的心構えの構造が説かれ、エリートである君子の進退の基準が説かれる。つまり宋代儒者や伊藤仁斎が行なったような、個人の徳目重視の読解を誘う内容となっている。徂徠が誤解であると批判する読解である。しかし両者は儒教倫理学の盾の両面と見るべきではないか。人間が準拠すべき文化制度としての「礼」を学ぶことはもとより重要であるが、主体的な倫理的決断を放置してよいはずがない。だから、「単なる善意だけでは政治はできない。単なる法律だけでは効果はあがらない」と本章で主張されているのであろう。徂徠の説は、官許の朱子学への批判として、「単なる善意だけでは政治はできない」と主張したと評価するべきではないだろうか。
《次回は離婁章句上、二》
(2005.12.16)