告子章句上
二
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告子曰、性猶湍水也、決諸東方則東流、決諸西方則西流、人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也、孟子曰、水信無分於東西、無分於上下乎、人性之善也、猶水之就下也、人無有不善、水無有不下、今夫水搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山、是豈水之性哉、其勢則然也、人之可使爲不善、其性亦猶是也。
告子(こくし)が言った、「人間の『性』は、一ヶ所でうずまいている水と同じなのだ。これの東側を決壊させれば東に流れていくし、西側を決壊させれば西に流れていく。人間の『性』に善・不善の区別がないのは、水に東西の区別がないのと同じだよ。」
孟子は言った、「水は確かに東西の区別はないが、上下の区別はあるだろうが。人の『性』が善なのは、水が必ず下に流れていくのと同じなのだ。人間に善がないことはありえず、水に下がないことはありえない。そもそも水というものは、今表面を打って跳ね上げさせれば額の高さにまで通らせることができる。もっと激しく打てば、山の上に届くまで打ち上げることすらきっとできるだろう。しかしこれがなんで水の『性』なものか?外からの力がそうさせているのだ。もし人間に不善をさせることができたとしても、その『性』とはこの水と同様なのだ。」
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前章と同工異曲の論議。自然との類比によって人間存在を考えるのはプラトンやアリストテレスもそうなのだが、孟子と告子の議論はギリシャ哲学に比べると粗雑である。どうして水の東西と上下を人間の本性と類比すべきなのか?なぜ自然存在一般について一定の普遍的法則があることを論ぜず、ここで水だけについて論じるのか?両者ともそれについて何も論証しないので、ただ思いつきで言っただけの印象批評にすぎない。