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盡心章句下






孟子曰、不仁哉梁惠王也、仁者以其所愛、及其所不愛、不仁者以其所不愛、及其所愛、公孫丑曰、何謂也、梁惠王以土地之故、糜爛其民而戰之、大敗、將復之、恐不能勝、故驅其所愛子弟以殉之、是之謂以其所不愛、及其所愛也。

孟子は言った。
孟子「梁恵王は、何と不仁なのか!仁者とは、その愛するものへの心を、愛さないものにまで及ぼすものだ。そして不仁者は、その愛さないものへの心を、愛するものにまで及ぼす、、、」
公孫丑「いったい何について言われているのですか?」
孟子「梁恵王は領地欲しさのために、人民を血だらけのひどい戦に追いやっておまけに大敗してしまった。さらに復讐戦を企んだが、勝てないのを恐れた。それで今度は自分の肉親に軍を直率させて必勝を期した。だがやはり大敗し、太子以下死んでしまった。これぞ愛さないものへの心を、愛するものにまで及ぼしたことではないか。」

盡心章句下篇は、梁の恵王への孟子の批判から始まる。身近な者への情愛をどんどん広げていくところに孟子の仁政論の根幹はあるから、身近な肉親を大事にしない君主などは不仁の最たるものである。舜はどんなにひどい仕打ちにあっても父や弟を責めたりせず、天子に即位した後でも父を決して臣下として扱うことなどせず、あまつさえ愚か者である弟に領地すら与えてやったという。聖人舜のこれらの事跡は、萬章章句で説かれた通りである。仁者とは、身内にこのようでなくてはならないと言うのだ。

本章で孟子は、梁すなわち魏の恵王がこうむった二度の敗戦について言及している。恵王の治世中において大敗をこうむった相手といえば、西の秦と東の斉である。

西の秦に対しては河西地方(陝西省北東部)を奪われ、都を秦との国境に近い安邑(あんゆう)からずっと東の大梁(だいりょう。現在の開封)に移すきっかけとなった。秦は孝公の下で商鞅が変法を行なって、にわかに強大となったのである。東の斉に対しては、有名な孫臏(そんぴん。ピンは「にくづき+賓」。以下「孫ピン」と表記)と龐涓(ほうけん。ホウは「まだれ+龍」。以下「ホウ涓」と表記)との戦いがそれに当たる。本章で言及されているのは、この孫ピンとホウ涓との二度の戦いであろう。すなわち一度目は、ホウ涓率いる魏軍が趙の都邯鄲を包囲したときの戦役である。孫ピンは救援の斉軍を邯鄲に送ることはせずに、かえって動員によって手薄となった大梁を襲撃して包囲した。このときまだ大梁は魏の都ではないが、後に遷都もされたようにすでに屈指の大都会で最重要拠点であった。果たして大梁は落ちて、ホウ涓の魏軍はあわてて邯鄲の包囲から取って返した。相手の想定内の戦場で戦う愚を避けて、むしろこちら側が主導権を握る戦いに引きずり込むための絶妙の策であった。孫ピンは注文どおりに、魏軍を大いに破ったのである。俗に言う「大梁を囲んで邯鄲を救う」計である。二度目の戦いは、「馬陵の戦い」である(BC342年?)。当時魏は韓を攻撃していた。秦と斉に東西から挟まれた魏が、包囲網の弱い輪である南の韓へ押し出したといえるだろう。斉は救援の軍を出した。魏軍はホウ涓を将軍として、太子にもまた出馬させていた。斉軍もまた、孫ピンを軍師としていた。孫ピンは魏軍を油断させる策を立てた。すなわち、魏軍は斉軍を追跡して行軍していたが、斉軍の宿営地の後に兵が炊飯するための竈を置いていった。竈の数は一日ごとに十万、五万、三万と減っていった。これを見たホウ涓は、斉軍に逃亡者が相次いでいると判断してしまった。当時「斉兵は臆病である」という通念が広くあったので、孫ピンはその先入主を利用してホウ涓を心理的ワナにはめたのである。果たして深追いを決意した魏軍は、ついに馬陵(ばりょう。河北省)の地に至った。その地に孫ピンは伏兵を忍ばせておいたのである。結果ホウ涓は討ち死にして、太子もまた死んでしまったという(『史記』魏世家では捕らえられたと書かれているが、『戦国策』では戦死したことになっている)。

国の後継者に戦わせることは、適度に功名を上げさせて権威を高め箔を付けるために、古今東西で多くの武将が行なっていることだ。梁の恵王が果たして太子の箔付けのために戦いに出したのかどうかは、よくわからない。だが実戦を一度も知らずにトップの座を譲られることが、戦国時代の君主としてよいことなのかどうか。孟子は仁義の原理主義者として、梁惠王の行動を完全に否定する。しかし戦国の君主として太子に場数を踏ませようとしたと考えるならば、王の行為は孟子が頭ごなしにけなす程に愚行とは言えないのではないだろうか。結局孫ピンの天才のために太子は死んでしまったが、それは結果である。後継者を恐るべき強敵との戦いに出してしまったことは、少々配慮が足りなかったとも言えるだろうが。『戦国策』には、太子の傳(守役)が今度の戦いに不安を感じて王に太子の出馬を取りやめるように懇願したが、王は聞き入れなかったというエピソードが収められている。確かに後継者のリスクを避けるべきという視点から見れば、王の愚行である。しかし戦国時代という時代そのものがリスクを回避ばかりしていては敗れ去る大競争時代であったということも考慮に入れるべきではないだろうか?


(2006.03.30)



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