離婁章句上
二十六
孟子曰、不孝有三、無後爲大、舜不告而娶、爲無後也、君子以爲猶告也。
孟子は言う。
「不孝には三つあるが、後継ぎがないのが一番悪い。(後の二つは「親の意向におもねって、かえって親を不義に陥れること」と「家貧しく親が年老いているのに仕官しないこと」だと、古来注釈されている。後継ぎがないのは親だけにとどまらない、先祖への不孝である。)舜が父親に無断で嫁を取ったのは、そのままでは後継ぎがなくなるからだ。君子ならば、これでも親に告げたも同然と考えるのである。」
|
身近なものへの情愛からだんだんに広げていって社会倫理を構築する儒教では、家族をないがしろにする善というものはありえない。後の章で見るように、聖人の舜ですら(いや、聖人の舜だから)天下を治める喜びなど父との仲がうまくいかない哀しみに比べればゴミのようなものだと言われる。君主は人民から仰ぎ見られる模範的人間だから、「天下のことを考えていれば家族を顧みなくてもよい」というような誤ったメッセージを人民に送ってはいけないのである。天下の模範として人倫の道を示せというエリート道が儒教なのだ。裏返せば、人民はしょせん仁義も智も足りないからせいぜい家族のことを考えるのが関の山であり、それが家族を顧みなくなれば利己心の衝動で動くケダモノに等しくなるという冷酷な見切りが存在する。儒教はデモクラシーとは無縁である。
そういった家族を倫理の根幹に据える儒教であるが、そこには本章で述べられるような親を越えた先祖への孝行心というものまで視野に入っている。死んだ先祖についてはもう見ることも接することもできないのだから、それへの孝行は他人への情愛を広げる「仁」の心であるはずがない。全く過去から未来へと続く生命の連続感を実感し、かつ先祖を同じくする大家族の連帯を強めるための制度的装置だと見るべきである。だからこれは「義」の倫理の範疇であろう。
中国社会では古来から先祖を祀るしきたりが強く守られてきたから、二十一世紀の現代においても孔子や孟子の子孫とか諸葛孔明の子孫とかが大真面目で存在しているのである。儒教を厳密に輸入した韓国でも同様で、先祖を同じくする「金」姓の人があまりに多すぎて結婚に差支えが出る(同じ先祖の同姓の結婚は近親相姦である)という問題が起きている。さらに「同じ先祖ならば家族」という倫理がネポチズム(身内びいき)と結びつくと、一族の出世頭に大量の親族がぶらさがってたかり集まる構造が出来上がる。兄弟いとこ程度で終わるネポチズムならば害も少ないが、九代前の先祖から分かれた叔父さんに利権を与えなければならないとなれば、これは途方もない広がりとなる。さすがに韓国や中国でも今はだんだん下火になっているようであるが?
儒教の先祖を祀る倫理については、日本は仏教と接合させることによって極めて小規模な先祖供養に変形させた。もともと仏教には先祖を供養するような思想はない。死ねばまた六道のどこかに生まれ変わるだけなのだ。その「人」はきれいさっぱりなくなり、業(カルマ)だけが続いて次の命となる。またどこかの世界で人間に生まれ変わっているかもしれないし、天界にいるかもしれないし、犬かミジンコにでもなってしまっているかもしれない。何にせよ、死ねばその「人」は消え去ると教えているはずなのだ。だが、やはり何となくそれでは釈然としない感覚があったのであろう。「死んだ人はまだ霊魂だけが生き続けているのかもしれない、、、」という畏れを消し去ることはできなかった。そこで、地蔵信仰や盂蘭盆会などの仏教的には本筋でない「輪廻に苦しむ先祖を救ってやりたい」という思想が日本では大々的に採用されて、今に至る。中国や韓国ほど組織的ではないが、日本も先祖の霊魂への畏れを一応制度として取り込んでいる文化圏である。
キリスト教も、本来先祖信仰などとは無縁の宗教である。「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」(『マタイによる福音書』)とイエスは言う。キリスト教ではまず第一に人間が父なる神の被造物だということを知るところから始まる。まず心を尽して神を愛さなければならない。その上で、地上の掟として神から父と母を愛することが命じられる。よってもし親が神を知ろうとせず異教に留まるならば、親といえども袂を分かたなければならないだろう。聖バーバラ St, Barbara の父は異教徒で娘を塔に監禁するほど異様な執心の親であった。だが塔の中にイエスが降臨して、やがて娘はキリスト教に改宗した。それを知った父は怒って、ついに娘をローマの官憲に引き渡した。バーバラの殉教後、父は神の放った稲妻で即死したという。当然死後バーバラは天国に昇り、父は地獄に落ちて永遠に苦しむであろう。だが、それは致し方ないのだ。例えば、ある人がキリスト教に改宗したとしても、すでに世を去った彼の先祖は皆地獄行きである。先祖たちは福音を知らなかったが、それも全能の神の大いなる意志の内にあるはずなのだ。それを人間が「先祖を見捨てるのは無慈悲だ」などと憤ることこそ、不遜であろう。
このような「人間は、先に生まれた者も後に生まれた者も等しく父なる神の被造物である」という思想が近代西洋社会では全面的に開花して人権思想となり、個人主義を用意した。一方北東アジア社会でも、現在個人主義へなし崩し的に移行しようとしている。やがては先祖信仰も絶滅してしまうに違いない。人間が自由を求めるのはおそらく本性に基づくものだから、それは人間の心の流れとして自然なことなのであろう。だが、他者に開かれた仁義の心を誰が、どうやって見出すべきかという問題は、西洋社会でも北東アジア社会でも変わらず問題として残るに違いない。
《次回は離婁章句上、二十七》
(2005.12.28)