斉の宣王関係のエピソードが続く。ここでのテーマは先に梁の恵王と問答した「人民と共に楽しむ」君主のあり方についてであり、より詳しく事例が展開される。
ここで大事なことは、王が好むべき趣味の「内容」は別に何でもよいということである。そして、人民に王のスポーツや音楽の好みの「内容」まで必ずしも共感させる必要もまたないということである。王が楽しんでいる「姿」に人民が共感するようにせよ、と言うことだ。そのためには、人民の生活を安定させるような仁政を施せと主張する。あくまでも倫理の枢要は人間関係であって、何を食べるべきかとか何を見聞きするべきかとかの感覚的趣味は倫理の中で重要でない。これはすぐれた見解だ。ヒトラーとは違う。実際、孟子は大変な美食家であり、『孟子』には料理についての言及がとても多い。感覚的趣味に敏感だったが、感覚的趣味を倫理的に指定することはしなかった。孟子はやはり思想家である。自分の趣味の良さで勝手知らぬ人民を威服できると思うな、という戒めと好意的に評価したい。
もっと深読みすれば、先輩孔子があれほど執心した音楽に孟子は全編を通じてあまり言及しない(盡心章句下、二十二などがあるが、音楽の内容についての批評ではない)。孔子は「斉に在りて韶(しょう。舜の作とされる音楽)を聞き、三月肉の味を知らず」(『論語』述而編)というぐらいに音楽に感動する人であった。それなのに孟子が先輩のように熱っぽく音楽を語りたがらないのは、ひそかに彼自身はいにしえの音楽に共感できかねていたのではないだろうか。そこからこの章のような芸術スポーツの内容そのものから一歩引いたスタンスを作り出したのかもしれない。
《追加》この章で私が書いたことは、後の告子章句上で出てくるイデア論的な趣味・善の普遍性の論証のスタンスとずれているようである。孟子があらゆる事物に本質を求める純然たるイデア論者であったのか、それとも告子章句の「人間の趣味はたいがい似通っている」という論述は理・義の人間普遍性を論証せんがためのレトリックにすぎないのか、その見極めはまだ保留しておきたい(2005.09.22)。 |
人民から「姿」を見られる関係の中で、君主の生活や快楽は評価される。孟子は仁義の原理主義者だから、君主が見てくれの格好よさや武勇の男らしさで人民を引きつけろなどとは主張しない。仁の道すなわち情けの深さで引きつけろという。つまり、常に親のことを思い、妻子に情けをかけ、人民と共にありたいと願っている君主だから、人民も君主が楽しんでいるとしぜん目上の人への敬いの心が生じて「よかった、よかった」と喜ぶ。逆に自分自身で楽しんでいるだけの君主ならば、人民は「何だ、あいつは。薄情者め」と軽んじるのである。
人の上に立つのは、何と大変なことなのだろうか。だが、孟子は別に富貴自体が悪いことだなどとは全然言っていない。キリスト教のような自己愛を滅却した神からの掟としての隣人愛ではなくて、身内を愛することの延長で他人をも愛することを薦めている(梁恵王章句上、七)。だから家が裕福であること自体を責めるわけにはいかない。身内の幸せを奪ってまで人民に分け与えるのはいかがなものか、となるだろう。じっさい孟子が絶賛する聖王舜は、愚弟とも言える象(しょう)に非常に甘いとも受け取れる優遇をした(萬章章句上、三)。人間の自然な他人への愛情が孟子のシステムでは根本的に大事だから、不仁で無能な弟に対してでもこのようにするのは倫理的によいことなのである。この辺で儒教は人間倫理と政治倫理を対立させたりしない。ネポチズム(身内びいき)の教義だと非難されても仕様のない部分がある。だがそれは首尾一貫した倫理体系なのだ。この首尾一貫した倫理を、本でしか儒教を知らない日本人はよく理解できないのだろう。実際私も舜の伝説を読んでそこはかとない違和感を禁じえない。日本人はオオクニヌシや海幸山幸の伝説のように、「賢い弟が愚かな兄を出し抜いて見捨ててしまうのはそんなに悪いことではない」と考えているはずだ。旧約聖書を見てみよう。ヤコブの子、ヨセフはごうまんな夢を見たことを広言したので、それをねたんだ兄たちにエジプトに売り飛ばされてしまった。彼はエジプトでその夢占いの能力が認められて、出世して宰相となった。後に飢饉が起こって兄たちがエジプトに食を求めに来たが、兄たちは宰相がヨセフであると気付かなかった。ヨセフは兄たちに対して表面上厳しい裁きを下して監禁までしたが、実は手を回して実家に資金を援助し、最後はついに改心した兄たちの前で正体を明かして和解したのである。この『創世記』末尾にある説話より、日本神話のケースは肉親にもっと薄情ではないか。この日本人の身内へのかなりの薄情さと、日本人もまた中国人らと同じく至上善だと思っているはずの「他人に配慮する心」とがどのように折り合いがついているのか。よくよく検討していきたいと思っている。
一方、キリスト教は父なる絶対神に視線を集中させて、身内への愛という自然な人間倫理を断ち切る操作をする。
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは収税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたも完全な者となりなさい。
そして、自然な関係の破壊は、さらに進む。
地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
(以上、『マタイによる福音書』より)
もちろん、「父を愛し、母を愛せ」というのは神からのいましめである。だがそれは神がそう命じているからで、それ以前に神を愛さなければならない。こうやってキリスト教では殉教が可能となる。親と子が原理的には対等の他人となり、夫婦が対等の二人の契約関係となるのである。ジャクリーン・ケネディが夫の死後大して日を措かずに再婚してジャクリーン・オナシスとなっても別にかまわないのだ。夫の死と共に地上での契約は切れた。後はまた死後に天国で会おう。身内は他人となって、一方にネポチズムのない透明な社会が生まれ、人情でなく仕事の能力だけで人を見る目が生まれる。だが他方でそれは一人一人が孤独な社会である。