前章からの続きである。結局こうして宣王の燕併合の企図は失敗に終わった。『史記』燕召公世家によると、燕王子噲(しかい。「かい」はくちへんの右に會)は宰相の子之を重く用い、子之は国政を壟断していた。子之は蘇代(そだい。有名な合従論者、蘇秦の一族)などを使って王に子之をますます尊重するようそそのかさせ、王は論者の口車に乗せられて子之をますます重用し、ついに王位を禅譲してしまった。果たして三年もすると国は大いに乱れ、後に昭王として即位する太子平(へい)は斉の後ろだてを得て挙兵した。戦闘の死者は数万に上り、国は恐怖におののいた。このとき斉は直接軍事介入に出たのである。燕軍は戦意なく、城門も閉じられず、斉軍はやすやすと燕に攻め込むことができた。子噲(しかい)は死に、子之は亡命した。前章で宣王が「これは人力だけでできたとはとても思えません。併合しなければ、かえって天のわざわいがあるのではないでしょうか。」と言った背景には、こういう事情があったのである。だから、孟子はこのとき決して抽象的な大義名分論をふりかざしていたわけではなくて、もっと現実的な政治・軍事の道筋を見解として語っていたのである。理想論ではあるが、とんちんかんな意見ではない。
梁恵王章句ではこれが宣王との最後の問答である。孟子が斉を去っていく際のエピソードは公孫丑章句で改めて語られる。それは、この梁恵王章句が孟子生涯の遊説記の体裁を取っていて、テーマは王との問答を通じた仁政のあり方を説いたものである。代わって次の公孫丑章句は、君子の生き方・心掛けがテーマとなる。それで孟子の進退のエピソードを公孫丑章句に持っていったのだろう。
宣王を諌めるときに持ち出してくるのが、また聖人・殷の湯王の故事である。これも紂王の話と同じく、孟子の理想論のためには事実としてあったことだと主張される。仁者はこのように無敵でなくてはならないのだ。それで、この後に登場する滕(とう)の文公のようにみじめなまでの小国の君主にさえも、「善行を積めば創業のいしずえとなり、後世の代になっていつか国は強くなる」、と説くのである(梁恵王章句下、十四。さすがにすぐに強くなる、とまでは言えなかったようだ)。
ここではたと思いつくことがある。斉のような大国にも滕のような小国にも等しく仁義の政治を勧める。これは、背後に公正なルールとでも言うべきものを想定していて、その公正なルールを人間たちがはっきり認識すべきだと孟子は言おうとしていたのではないだろうか。単に滕の文公に「運を天に任せろ」と説いていただけでは政治思想にならないし、そんな説を広めようとするほど孟子はお目出度い思想家ではないのではないか。経済自由主義は決して弱肉強食ではなくて、市場に参加する各人の(機会としての)権利が公正に行き渡ることによって初めて成り立つ。第一次大戦までの国際社会は弱肉強食の世界だったが、二度の破壊的な大戦を経て国際的紛争解決の場としての国際連盟→国際連合が設定された(いまだ充分に機能していないようだが)。弱肉強食そのものの中国戦国時代に、孟子は仁義の道というルールが人間にはあり、それをはっきり認識して採用しなければならないことを天下の君主に説いて回ったのではないだろうか。
実際、孟子にはルールとでもいうべきものを人間の規準として重視する傾向が見て取れる。離婁章句上、一はまさにそのことを語っている。萬章章句下、七で虞人(ぐじん。御苑の管理係)が斉の景公のルール違反の招集命令に応じなかったエピソードを持ち出したときのニュアンスもそうなのではないか。そして今読んでいるこの章では、湯王の征伐はいわゆる「漢民族」(このような認識ができたのは、周囲を中華にまつろわぬ異民族で取り囲まれてしまった宋代のはずだ)にだけ歓迎されない。北や西の異民族の願いでもあったとされているのだ。異民族まで取り込むシステムは、古代ローマのように法だけで普遍性を保つ「帝国」(批評家、柄谷行人の用語による。講談社学術文庫『<戦前>の思考』所収の『帝国とネーション』を参照)ではないのか。すなわち、個々の民族部族の枠組みを越えた普遍的・抽象的な人間のルールに湯王は従ったから、蛮族をも加えた天下の支持を得たのだと孟子は考えていたのではないか。
では、そのルールとは何なのか?離婁章句上、一で言う「いにしえの王の道」(先王之道)「いにしえの王の法」(先王之法)とは具体的に何なのか?何が普遍的なのか?
「先王の道」は、先王が創造したものである。天地自然のままの「道」ではないのである。つまり先王は聡明、英知の徳を持つことから、天命を受け、天下に王としてのぞんだ。その心はひとえに天下を安泰にすることを任務としていたので、精神を使いはたし、知恵の限りを尽くして、この「道」を作りあげ、天下後世の人々をこれによって行動するようにさせたのだ。天地自然のままに「道」があったわけでは、決してない。
(荻生徂徠『弁道』第四章より。前野直彬訳、中央公論社『日本の名著16』から引用)
それに、先王が天下の法政の規準を作り、人間が生活をする規範を立てるためには、もっぱら礼に依存した。智者は考えることによってそれを理解しうる。愚かな者はわからないが、礼に従う。賢者は上から礼へと向う。賢でない者は背のびをして礼にとどこうとする。何か一つのことをし、一つの発言をしようとすることがあれば、礼に照らして考え、それが先王の「道」に合うかどうかを知る必要がある。だから礼という言葉は、具体的なものである。先王の「道」の具体化されたものである。
(同上、第二二章より。)
人間普遍的な「いにしえの王の道」「いにしえの王の法」を具体的な社会システムとして考えるならば、上の荻生徂徠の見解にしかなりえないのだろうか。徂徠は孔子以降の子思、孟子、そして宋代儒学者たちが人倫の本質を人間の心の中にある純粋善 − つまり、仁・義・礼・智 − に集約する方向に傾斜してしまい、結果として儒教にとってかんじんかなめであるはずの人民を教化し、国を治め、天下を平らかにする方法を何も考えようとしないのを激しく批判する。徂徠に言わせれば、孔子は本来偉大ないにしえの王の道を「述べて、作らず、信じて、いにしえを好む」(『論語』述而篇「述而不作、信而好古」)流に敬虔に制度礼法を学んで後世に伝えようとしていただけなのに、後継者の子思や孟子は新興の老荘思想を論破するがために抽象的な本質概念の「道」や人間性概念の「性」の論理をひねり回すようになって、後世の儒者を誤解させる道を開いた。それでもまだ孟子はさきほどの離婁章句上、一に見られるように本当は「述べて、作らず」継承された制度を明主の力で普及させるしか天下を治める規準がないのを知っていたのだが、論敵をたたきつぶし諸侯を折伏するために例えば「いけにえの牛をかわいそうだと思った心を広げて、天下に仁の心を広めよ」(梁恵王章句上、七)流のとりとめのない理想論をもてあそぶようになった。
だから、徂徠に言わせれば、「先王の道は礼楽のみ」となるのであろう。規準は正しい制度にしかない。そして人民を教化する方法は礼=礼儀・儀式の普及と楽=文化政策(統制といってもよい)にしかないとされる。この主張、ほとんど荀子(じゅんし)の説と同じである(実際、徂徠は荀子を評価している)。そして、荀子から法家の韓非子へはひとっ飛びである。徂徠からいにしえの王の制度への尊重を消し去れば、韓非子になるだろう。
ならば、孟子の隠れた本意は荀子、韓非子、そしてわが荻生徂徠と大して変わらなかったのだが、思想家として生きた時代の要請によってやむなく「いけにえの牛をかわいそうだと思った心を広げて、天下に仁の心を広めよ」流の空論に走っただけなのだろうか。それを後世の儒者どもが真に受けて主観哲学に暴走しただけなのであろうか?「大事なのは、仁義。これだけです。」(梁恵王章句上、一)ではなくて、「大事なのは、システム。これだけです。」なのだろうか? − 結局は、そうなのかもしれない。ならば、孔子→荀子の思想の流れが正統で、孟子は単に老荘思想家などに反論して儒教学派をつぶさなかった点だけに意義があった思想家ということになる(そしてこれが徂徠の孟子評価である)。
だがそれでも気になるのは、果たして礼楽のような「文化」の力で蛮族までなつかせるような威力がありえると考えていたのだろうか、という点だ。孟子も先輩孔子と同じく中華文明の絶対的優位を確信していたようだから、そうなのかもしれない。しかし古代中国とはわれわれが考えるよりももっと多様な文化の担い手を綜合して形成された、ユニバーサルな世界であったはずだ。殷は北方の蛮族が開いた王朝であったと言われるし、周は明らかに西方の蛮族由来の王国だ。秦の制度にはおそらく西のアケメネス朝ペルシャの影響がある。始皇帝の兵馬俑は秦軍が多民族軍であったことを雄弁に物語っている。そのすぐ西にいた遊牧民、月氏(げっし)はイラン系の白人だ。南からは楚・呉・越の蛮族が中華に参入している。この孟子と宣王の時代には斉のすぐ北に中山(ちゅうざん)という北方の遊牧民が建てた王国があった(BC296? に趙・燕・斉により滅亡)。
そのような多様な社会で編み出された孟子の倫理思想は、西方ヘレニズム世界や初期ローマ帝国で展開されたストア学派の倫理思想に酷似している面が多い。心の中に確固とした不動の善を見出し、「不動心」を育成して苦難に耐えるといった倫理観は孟子と例えばローマのストア主義者セネカに共通している。孟子は社会システムまで倫理的に考察するが、セネカはあくまでも個人の生き様にとどまることが(本質的な)違いだけなのかもしれない。ストア学派の思想がポリスの解体したギリシャ植民社会、そしてあまりにも大きく多様になりすぎたローマ帝国の中で思索され求められたのを考えると、次の公孫丑章句で展開される孟子の「心の分析」に傾斜した思想もまた単なる老荘思想らへの反論ではなくて時代に応じた抽象的思索の跡だったのではないか、などと考えてしまうのだが、、、あまりこれ以上突っ込むと、ただの放言になりそうだ。
ひるがえって日本は、バジョットがイギリス国民を「多様な」 mixed と形容したのとはおそらく異なって相当単一な homogenous 国民である。だから荻生徂徠の「礼楽がすべて=政治の課題は制度の制定、文化の統御がすべて」の主張は非常に説得力を持つ。じじつ明治維新後に徂徠は国家理性による制度制定の意義を認識した先駆者として再発見された(子安宣邦『江戸思想史講義』第六章を参照)。日本では、共同体の合間から発展したキリスト教などはなかなか定着しない風土がある。だがこれからの日本も単一的でありつづけるのか、それとも多様的となっていかざるをえないのか(多様化は、何も外国人が流入してくることだけが要因として起こるのではあるまい)で、人が求める倫理のあり方もまた違ったものになるのかもしれない。それとも、社会とはそんなに急に変わるものではないものなのかもしれない。
(2005.09.27)