盡心章句上
二
孟子曰、莫非命也、順受其正、是故知命者、不立乎巖牆之下、盡其道而死者、正命也、桎梏死者、非正命也。
孟子は言う。
「人が死ぬのはすべて天命でないことはないが、人はそれを正しく受け止めるよう心がけなければならない。だから、天命を知る者はガケとか崩れかかった塀のそばには立たない。己の道を尽して死ぬ者は、正しい天命の全うのしかたであり、これを正命という。だが刑に処されて道半ばで死ぬ者は、これを正命とはいえない。」
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前章と相補って読むべきである。儒教では天国での生などないのだから、無益な事業によって命を無闇に危険にさらすことは、賢明と言えない。ストア哲学者のセネカが以下のように言うことと通じている。すなわち、
思うに、以上の問題と同じことについてデモクリトス(ギリシャのストア哲学者)が言ったのが、この言葉である。すなわち、「平静に生きようと望む者は、公的生活においても私的生活においても、多くのことをしてはならない」と。これはもちろん、無益なものごとについて言っているのである。なぜならば、もし有益なものごとであるならば、公的生活でも私的生活でも関わりなく、できるだけどころかどんどんいくらでも行なわなければならない。しかし崇高な義務が私たちを召さない場合には、私たちは自らの行動を精査しなくてはならない。
なぜならば多くのものごとを行なう者は、運命の女神の力に自らを任せてしまうからである。それよりは彼女の試練を受けるようなことは滅多にせず、逆に彼女のことを考えながらも彼女を信頼して自分自身に何か約束するようなことは行なわない(つまり運があることを心に置きながら、幸運をアテにしないということ)のが、最も安全である。例えば、このように。「私は、何も起らなければ出港するだろう。」「私は、誰にも妨げられなければプラエトル(praetor、法務官と訳される。裁判を担当するローマの最高官職の一つ)に就任するだろう。」「私の事業は、もし何ごとも起らなければ、私の期待に等しくなるであろう。」など。それゆえ、賢者には、彼の期待すること以外のことは、何一つ起こりようがないのである。私たちは賢者もまた人間につきものの不運に襲われることを予測するだろう。しかし、彼が人間が犯す過ちを行なうことについては期待しようがないのだ。賢者は、彼が望んだとおりのことに出くわすのではない。彼が起るかもしれないと考えたとおりのことに出くわすのである。
(セネカ『心の平静について』 On tranquility of mind より。英訳からの転訳)
惻隠の心、羞悪の心は人間誰でも持っている衝動だが、それを無軌道に外界に向けて発散するべきではない。効果を計算して、意味のある善をなさなければならない。儒教は、そのために社会的なルールである「礼」に従って行動せよと教える。「礼」に外れた様式の善意が相手に通じるなどと考えないのが、醒めた儒教のコミュニケーション観である。だから状況を考えずに命を賭けることはしないし、相手が聞かざるを得ない立場に自分がいない限り、疎遠な他人と意思が通じるなどという幻想を持たない。それは他人とのコミュニケーションが不透明となってしまった時代に対する、一つの行動規範を教えるものである。
(2006.03.09)