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盡心章句下



十四




孟子曰、民爲貴、社稷次之、君爲輕、是故得乎丘民而爲天子、得乎天子爲諸侯、得乎諸侯爲大夫、諸侯危社稷、則變置、犠牲既成、粢盛既求A祭祀以時、然而旱乾水溢、則變置社稷。

孟子は言う。
「人民がいちばん貴い。その次に社稷(国の神さま)が貴い。君主はそれに比べて軽い。したがって、天子とは人民に推されたがゆえに就くものであり、諸侯はその天子に推されたがゆえに就くものであり、諸侯の大夫(上級家老)はその諸侯に推されたがゆえに就くものである。だからもし諸侯がその国の社稷を危うくするようであるならば、その諸侯を替え置くべきである。また、祭りのいけにえもお供えのご飯もきちんと整え、祭りの時期も季節に正しくかなっているのに、旱魃・洪水がなくならないならば、社稷を替え置くべきである(*)。」

(*)「社稷を変え置く」というのは、定説では「天変地異がなくならない以上は、社稷の建物を造り替えるべきだ」ということである。

本章は、『孟子』全篇の中でも最も問題のある章の一つである。吉田松蔭が本章について、

(日本は万世一系であり、人民にとって天皇が最も貴くて天皇にとって人民が最も貴いという伝統の)義を理解せずしてこの章を読めば、毛唐人どもの口真似をして、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり」などと罵り、国体を忘却するに至る。(『講孟箚記』より)

と主張するのは、彼の思想からして致し方ないことであろう。

しかしながら、萬章章句上、五で堯から舜への代替わりにおいて、人民の動向がその正当性を表す徴候として決定的な役割を持っていたと説明された。同、六では舜から禹への代替わりや、禹から啓への代替わりにおいても同様であったと言う。まことに人民の声は、天の声の代弁者として解釈されるのである。孟子が引用する書経大誓篇の一句、「天が見るのは、我が人民が見るのに従う/天が聴くのは、我が人民が聴くのに従う」は、本章の主旨と全く一致している。だから、本章において孟子が、「人民の意向を無視して独り勝手なふるまいをする君主は、もはや天子諸侯の資格がない」と考えていたはずであることは、梁恵王章句下、八で「残賊の君主は、もはやただの人間である」と言って殷の紂王の討伐を是認した彼の主張に沿ったものとして解釈するより他はない。

本章において、「社稷」が個々の君主よりも貴いものであると主張されている。「社稷」とは「社」すなわち土地神と「稷」すなわち穀物神を合わせた言葉である。中国の祭祀において、王朝は必ず「社稷」を祭る。そして新しい王朝が興ると、前の王朝の「社稷」を廃してその王朝の「社稷」を建てるならわしとなっている。劉邦も、秦の「社稷」を廃して漢の「社稷」を建てる象徴的な儀式を行なった。すなわち、「社稷」とは現在天下を主宰している王朝の神というべきであろう。それとは別に、皇室の宗廟がある。宗廟は皇室のみならず各々の家が祭っている祖先の霊廟であって、国を廃しても宗廟を壊してはならないという掟が中華社会にはあった(梁恵王章句下、十一参照)。この「社稷」と各家の宗廟との二つの祭祀が並んで存在していた点を理解することが、中華社会の国家観を知るために非常に重要なことであろう。すなわち天子の位とは、堯が舜に舜が禹に代替わりしたように、天命を受けた有徳者の持ち回りなのである。天命の続く限りはその王朝の「社稷」は続いて祭られるが、天命が尽きて人民に見放されれば別の有徳者が新しい「社稷」を祭るまでである。しかし天子の位を失った家もまた、先祖の宗廟を祭り続けて人民として生き続ける。堯の子孫も舜の子孫も、天子の位を手放しはしたが家は続くのである。紂王の代に天子の位を失った殷とて、家そのものは後世に続いていったのである。このように、「社稷」はいわば各家が天から委託されたものにすぎない。だから、それを取り替えることは原理的に言えば許されるのである。逆に、各家を断絶させて宗廟を廃することの方が重大なタブー違反となる。そこが日本人の前提と違うのである。離婁章句上、二十六で孟子が言う「不孝には三つあるが、後継ぎがないのが一番悪い」という言葉は、日本人にはしょせんリアリティーが湧かないのだ。中国の家族システムを全面的に採用した韓国社会では、祖先からの系図である族譜を伝統的に極めて重視する。しかしその心情は、ほとんどの人民が三代前の先祖すら知らない日本人には、どうも理解し難いものがある。

孟子は本章で確かに「人民がいちばん貴い。君主はそれに比べて軽い」と言う。しかし孟子の主張は、「主権者は人民の手によって選ばれるべきである」といった主張まではさすがに行かない。孟子は「天命が続いている」とみなす限りは、王朝の世襲を認めることに躊躇しない(萬章章句上、六)。その意味で、あくまでも孟子は上下の「礼」の秩序を重要と考える保守主義者であって、決してデモクラシーの信奉者ではない。ただ、天子諸侯の位は天命の下った者の間の持ち回りであるはずだという考えに基づくことによって、時の君主に仁政を心掛けることを強く要求するのである。もし君主が家臣や人民をないがしろにするならば、下の者から見放される運命が待っているであろう。それこそが、天の声の地上における表れであることだと言うのである。


(2006.04.05)



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