君主は仁の心が第一で、一方で仕事をしてほしい賢者には腰を低くして迎える心構えが必要だが(公孫丑章句下、二)、他方で下の側近や家臣の思いを無視して独断専行するのは、下を軽んじる薄情な行為である。あちらを立てればこちらが立たずだ。まあ、それをうまくやるのが明君と呼ばれるのだろうが。
しかし、家臣のみならず国の者全体にまで意見を聞けとは、孟子は恐ろしく迂遠な人事論を主張するものだ。なぜこうなるのかと言えば、孟子が冒頭で指摘しているように戦国時代の各国では譜代の貴族階級というものが衰えて、高貴な身分の者が国全体を指導するというアリストクラシー aristocracy が成り立ちにくくなっていたからであろう。つまりそれだけ君主の権力が周囲から突出してむきだしなものとなっていた事情があると考えられる。このような状態から君主の権力を正当化する方法として、国の者全体の意見を集約せよ、という孟子の主張が導き出されるのであろう。
だが有体に言えば、選挙制度も民会もないのにこのような意見の集約は不可能である。いや選挙制度と民会があったとしても、完全にはできないだろう。古代ギリシャで時々民衆を扇動して独裁権力を握る僭主 tyrant が現れたのが、その困難さをよく物語っている。また古代ローマで、非常時に期限付きの独裁権を指導者に与えることを許すディクタトル dictator の制度があったのも、民意を迅速に集約することがほとんど不可能なときがあることを知っていたための智恵だったのだろう。
古代ヨーロッパ世界ではこのようであったが、中国では孟子以降どうなったか。
孟子の儒教と正反対の主張をなすと見なされ、後世儒家から弾劾された法家の代表、韓非子を見てみよう。彼は孟子より更に下った戦国時代末期(BC2C後半)の人である。主著『韓非子』には、このようなことが書かれている。
夫れ人主と為りて、而して身(みずか)ら百官を察すれば、則ち日も足らず、力も給せず。且つ上目を用うれば則ち下観を飾り、上耳を用うれば下声を飾り、上慮を用うれば則ち下辞を繁くす。先王三者を以って足らずと為す、故に己の能jを舎てて、法数に因り、賞罰を審らかにす。先王の守るところ要なり。故に法省いて而も侵されず、独り四海の内を制す。聡智もその詐を用うるを得ず、険躁もその佞を関(い)るるを得ず、姦邪も依る所なし。遠く千里の外に在るも、敢てその辞を易(か)えず、勢(ちか)く郎中に在るも、敢て善を蔽い非を飾らず。朝廷は群下直湊し、単微も敢て相踰越せず。故に治促(せま)らずして日余り有るは、上の勢に任ずること然らしむるなり。
(『韓非子』有度篇より。町田三郎訳注、中公文庫所収の読み下し文を引用)
《訳》
そもそも人の上に立つ君主が、自分で官僚全部を観察しようとしても、時間も足りないし、そのような能力もありえない。そのうえ、上の者が見た目で観察しようとすれば、下の者はうわべだけ飾るに決まっている。同様に、聞こえる事で観察しようとすれば、風聞を粉飾するに決まっているし、理性で判断しようとすれば、言葉を次々に並べて煙にまこうとするに決まっている。いにしえの賢王は、この三者では不足だとみなしたのである。だから、自分の目、耳、判断力を捨てて、客観的な法律の規則に則り、賞罰の規則を明らかにした。いにしえの賢王が守ったことは、要点を押さえること。これだ。だから、簡潔な法律でも侵されずに一人の力で天下を制圧できた。どんなに聡明な者にも、インチキを使う隙を与えない。どんなに声が大きい者にも、口八丁で取り入る術を与えない。邪悪な心の者にも、手がかりを与えないのだ。(こうすれば)はるか遠くにいて監視の目がゆき届かない配下でも、嘘を言わなくなる。すぐ近くにいる郎中(近衛侍従)でも、善をさえぎって不正を粉飾しなくなる。朝廷は全ての官僚が君主に直結し、ほんのわずかなことも越権行為しなくなる。したがって、別段細やかな統治を行わなくても時間に余裕ができるようにするためには、君主がその権勢を(かくのごとく)機能させることによって実現させる必要がある。
韓非子は、人間の能力の時間的限界と判断力のあやふやさを認識して、君主は客観的な法と賞罰のルールを明らかにして、その法に仕事をさせろと主張するのである。孟子の「国の者全体が判断したように持っていけ」という迂遠で実効性のあやしい主張よりも、より合理的で現実的である。
だが、以前の主張を繰り返せば、両者は権力の二つの面を一方だけ偏って主張しているだけなのだ。すなわち、バジョットを見たときに指摘した「権威を持つ」部分と「能率的な」部分である(梁恵王章句上、七のコメント)。孟子は「権威を持つ」部分に特化して語り、「能率的な」部分をきっちり検討しようとしない。一方韓非子は「能率的な」部分ばかり強調して、「権威を持つ」部分の繊細な意義を軽視している。『韓非子』では君臣・親子の秩序が社会の基礎だとは指摘するものの、それを実際的に守らさんがためには賞罰で家臣と子供に褒賞と恐怖を与えろ、と主張される(『韓非子』忠孝篇。ただし、この篇が韓非子本人の著作なのかどうかはよくわからない)。制度がどのような「人間性」によって支えられかつその「人間性」をどう安定的に保持していくべきか、という点を問うことなく、客観的な既存の制度として議論するからこういう主張となるのである。
だが真実はバジョットが言うように、過去の成功した政体は両者を視野に入れていたはずだ。日本の例で言えば、初期徳川幕府は都市・街道の整備に着手して経済制度を整えたのと同時に、大名・公家・人民にモノで権威を思い切り見せつける土木工事を次々に起こした。しかしモノだけでは権威の正当性には不足だということが分かっていたから、朱子学を採用して「秩序の中の善」のイデオロギーを普及させたのである(これについては、私のエッセイもあります。下手なエッセイですが)。
徳川時代前期の儒学者山鹿素行(AD1622 - 85)や伊藤仁斎(AD1627 - 1705)が早くも朱子学の批判を通じて儒教の主体的摂取に努め出したことから見ても、彼らの儒教への「ひたむきさ」を引き出した徳川幕府の意図は見事に図に当たったのである。彼らの「ひたむきさ」に対してあまりにも意地悪な物言いであるが。
さてところで、斉宣王が嘆く「採用する者の質が事前にわからない」という問題は、現代企業が雇用するときの困難でもあろう。その解決策として、公的な学歴・資格・仕事の前歴によって事前の判断材料とし、あるいは短期的な結果は大目に見て人材を育成する長期的な投資として雇用するかの政策が取られるだろう。前者に傾けば典型的アメリカ企業であり、後者に傾けば典型的伝統日本企業であろう(あくまでも「典型的」で、実際は両者とも様々なケースがありうることは当然だが)。
孟子はここで「皆に先に聞け」と主張することで、トップの速断にブレーキをかけて稟議に回させる伝統日本的な人事政策を薦めているように見える。だが孟子は一方で、湯王が伊尹を招き桓公が管仲を信頼したように、君主は賢者を決して逃すなと説く。両者が矛盾なく合わさるためには、つまるところ世の中には正しい道理があって、仁の人がその道をたどれば結局大衆の意見もそこに集約していくと同時に賢者の支持も得ることができるはずだ、という理想主義的な想定が背後にあるのだろう。それは後の章でおいおい説かれる主題なのだろうが、どうも孟子はただの「話し合い至上主義」では決してないようだ。
(2005.09.21)