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離婁章句下



二十五



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逢蒙學射於羿、盡羿之道、思天下惟羿爲愈己、於是殺羿、孟子曰、是亦羿有罪焉、公明儀曰、宜若無罪焉、曰、薄乎云爾、惡得無罪、鄭人使子濯孺子侵衛、衛使庾公之斯追之、子濯孺子曰、今日我疾作、不可以執弓、吾死矣夫、問其僕曰、追我者誰也、其僕曰、庾公之斯也、曰、吾生矣、其僕曰、庾公之斯衛之善射者也、夫子曰吾生、何謂也、曰、庾公之斯學射於尹公之也、尹公之他學射於我、夫尹公之他端人也、其取友必端矣、庾公之斯至曰、夫子何爲不執弓、曰、今日我疾作、不可以執弓、曰、小人學射於尹公之他、尹公之他學射於夫子、我不忍以夫子之道反害夫子、雖然今日之事、君事也、我不敢廢、抽矢叩輪、去其金、發乘矢而後反。

むかし、逢蒙(ほうもう)が射術を羿(げい。羽のしたに廾。以下、「ゲイ」と表記)に学んだ。逢蒙はゲイの射術をすっかり極めた。そして思った、「もはや天下で、俺よりも腕の立つのはゲイだけだ。」というわけで、ゲイを殺してしまった。

孟子は言った、「これは、ゲイにも落ち度がありますな。」
公明儀(こうめいぎ)は言った、「ゲイにほとんど落ち度はない。」
孟子は言った、
「大きな過失はないが、落ち度が全くないとはいえない。こんな例があった、

春秋時代、鄭国が子濯孺子(したくじゅし)に命じて衛国に侵入させた。衛国は、庾公之斯(ゆこうしし。ユは广 に臾。以下、「ユ公之斯」と表記)に迎えさせて、追撃に移った。子濯孺子は言った、
子濯孺子「だめだ。今日私は発作が起ってしまい、弓を取ることができない。死ぬだろう。」
そして、下僕に追撃者は誰か聞いた。下僕は答えた、
下僕「ユ公之斯です。」
子濯孺子「なに?ならば、私は生きられるぞ!」
下僕「ユ公之斯は、衛国の射術の名人です。先生はどうして『生きられる』などと言うのですか?」
子濯孺子「ユ公之斯は、射術を尹公之他(いんこうした)に学んだ。その尹公之他は、射術を私に習ったのだ。尹公之他は正義の人だ。彼が射術の友として選んだ者は、必ずまた正義の人のはずなのだ。」
さて、ユ公之斯が追いついて、子濯孺子に問うた、
ユ公之斯「先生、なぜ弓を取られない?」
子濯孺子「今日、私は発作が起って弓を取れません。」
ユ公之斯「それがしは、射術を尹公之他に学びました。その尹公之他は、とりもなおさず先生に射術を学びました。それがしは先生から受け継がれた術をもって、先生を倒すわけには参りません。しかしながら、今日のこの戦いは君命です。それがしは君命を完全に無視するわけには参りません。」
そう言って、矢を抜いて戦車の車輪に矢先を打ち付けて、鏃(やじり)を落とした。その上で四発放ち、衛国に帰還した。

(弟子に不義の者を持ったことが、ゲイの落ち度です。弟子や友人はよく選ばなくてはなりません。)」

公明儀は、どうやら孔子の高弟の一人、曾子(そうし)のそのまた弟子のようである。滕文公章句上、一でも孟子が彼の言葉を引用している。曾子は紀元前436年ごろに死んでいるから、その弟子が曾子死後百年後の時代に活躍した孟子と問答できたとはとても思えない。おそらく本章の原型は、孟子が公明儀の批評について付けたコメントだったのではないか。それがはるか後世に時代考証がわからなくなってしまい、あたかも両者が問答しているかのように再構成されたのではないだろうか。

子濯孺子とユ公之斯のエピソードは、『三国演義』での関羽と黄忠との一騎打ちのシーンを髣髴とさせる。おそらく元ネタの一つになっているのだろう。馬の脚が折れて戦えない黄忠を関羽はあえて討たず、黄忠はその返礼として翌日の戦いで関羽の兜の紐を射抜いてみせたという。義の人、関羽の面目躍如とした名場面だが、これは両者ともに軍律違反である。戦争に個人的な義理とか子弟関係などを持ち込むことは、近代戦争では決して許されない。法家もまた批判するところだ。

射術は古来から君子がたしなむべき芸の一つであるとみなされていた。孔子の時代に六芸(りくげい)と呼ばれたものは、礼・楽・射・御・書・数。これらはただのテクニックを学ぶだけではなくて、君子の教養として身に付ける文化であるとされていたのだ。西洋の大学でリベラル・アーツと呼ばれる教養と、意図は同じである。そのような教養としての射術だから、孔子はこのように言うのだ。すなわち、

君子無所争、必也射乎、揖譲而升下、而飲、其争君子也。

君子は通常争わないが、争うのは射術の時だけだろうか。登壇してのあいさつ、それから下壇しての試行において、会釈と譲り合いの礼を必ず行なう。そして勝者を称えて酒を贈る。これぞ君子の争いである。
(『論語』八佾(はちいつ)篇。イツは「にんべん+八のしたに月」)

このような優雅な礼が、射術には付いていたのだ。剣道の礼やクリケットの儀式のようなものを考えるとよい。だが、春秋時代も遠くに過ぎ去り露骨な実力優位時代となった戦国時代においては、射術に文化的側面など求めようとするのはアナクロであった。弩(ど。ボウガン)という未訓練兵でも使える機械弓が普及して、伝統的な弓術の実戦的意義もほとんどなくなった。弓の運用は、遊牧民族の戦法を真似た騎射戦術に代っていったのである。始皇帝陵の兵馬俑には、現在発掘されている限りでは歩兵・弩兵・騎兵それに戦車兵しかおらず、弓部隊は見当たらない。後世の時代においては、射術や御車術は君子の教養科目からも抜け落ちてしまった。エリートは完全に文の人となり、中国では武人は非常に蔑まれるようになる。

本章の孟子もまた、「だから戦場でも子弟の礼儀をわきまえよ」などと主張するつもりではないのだろう。確かに孟子は、公孫丑章句上、七で射術のたとえを使って「人の安宅」としての仁のあり方を説明している。だが、先輩の孔子が文武百般の教養に通じた万能の人であると賞賛されたのに対して、孟子はあくまでも論争の人であって、文武に秀でた万能人だったというようなエピソードはない。美食家だったが、次の章などを見ると美的センスもかなりあやしい。古きよき教養の時代から、孟子は相当遠ざかってしまっているようだ。

本章の主眼は、単に「弟子とか友人というのは本来他人なのだから、付き合うのはよく人物を見極めたほうがよいぞ」と言いたいのではないだろうか。弟子や友人は主君や一般人よりもなまじい自分に近い関係にあるから、油断しやすい。以降において取り上げたいが、友人との関係の取り方は、儒教の盲点である。無条件に自分とつながりのある親族でもないし、上下の身分秩序にも入らない対等の人間関係を、儒教の教えでどうやって取り結べばよいのだろうか?実際のところ、儒教の教義は友人関係について混乱しているし、孟子はそれについて逃げているような印象がするのである。萬章章句を検討する際に、考えたい。


以降について、二十六のコメントは割愛する。二十七、二十八は解釈にぶれがあるようなので、これもコメントは控える。


《次回は離婁章句下、二十九

(2006.01.11)




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