盡心章句下
十三
孟子曰、不仁而得國者有之矣、不仁而得天下、未有之也。
孟子は言う。
「不仁の者でも一国を得ることはありうる。しかしながら、不仁の者で天下を得たことは、いまだかつてあったことがない。」
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孟子は本章のように言うが、彼の時代の約百年後に、儒家の主張を国家統治の原理として全く斥けた秦始皇帝が天下を得たのである。孟子の主張は、こうして一旦無効となった。
キリスト教がローマ帝国の国教となって(四世紀末)以降、西ローマ帝国は衰運の一途を辿った。410年に西ゴート族によってついにローマが劫略されたことは、全国に衝撃を与えた。ローマの伝統的宗教の擁護者たちは、キリスト教を採用して民族の神々への崇拝を禁じたことが、神々の怒りを買ったのだと糾弾した。この時点で、キリスト教を採用することこそがローマ帝国を神の御心に沿わせて守護する道だというそれまでの主張は、現実の悲惨によって失格となったのである。ここからキリスト教は、地上の権力との関わりからはっきりと離脱して理論構築を行なうようになる。「地上のための宗教」という妥協的な側面を捨てて、「宗教のための地上」という側面に教説を純化したのである。それこそが、教父アウグスティヌス (Aurelius Augustinus, 354 - 430)の仕事であった。
儒教も、秦の時代に一旦挫折した。秦は革新的な実験が裏目に出て短期間で滅んだが、それを受けついだ漢もまたその当初は儒教をさほど重視していなかった。初期の頃の国家統治の原理は、道家的な無為の政治が主流だったのである。その後武帝の時代に、ついに儒教は正式に国教とされるようになった。しかし、秦時代の挫折を経て儒教が理論を決定的に変化させたわけではなかった。結果として、秦の始皇帝は儒家によって未曾有の暴君とされ、即位するべきではなかった君主として最悪の評価を与えられれることになった。そして秦の滅亡は、儒家の意見を聞かずに暴政を行なった結果としての因果応報として位置付けられるようになったのである。地上での政治的成果を得ることなしには儒教の体系は成り立たないから、キリスト教のように地上の政治体制と人間倫理を切断する方向には、しょせん向わなかったのである。だがもし秦の治世が成功して長期間続いたならば、ひょっとして儒教はそのまま滅んでしまって、墨家思想の後継的宗教が儒教の個人的倫理を吸収して拡がる展開もまた、ありえたのかもしれない。
(2006.04.04)