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梁惠王章句下






齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂、有諸、孟子對曰、於傳有之、曰、臣弑其君可乎、曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之殘、殘賊之人謂之一夫、聞誅一夫紂矣、未聞弑君也。

斉の宣王が質問した。
斉宣王「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したというのは、本当にあったことなんですか?」
孟子「本当にあったと伝えられています。」
斉宣王「武王はももともと紂王の家臣でした。臣がその君主を殺してもよいのですか?」
孟子「仁をだめにする者、この者を名付けて「賊」。義をだめにする者、この者を名付けて「残」。残賊の者は、ただの一人の男です。紂とかいうただの一人の男を武王が誅殺したとは聞いていますが、臣が君主を殺したとは聞いていません。」

仁義の原理主義者、孟子の面目が躍如している節である。このようなことがぬけぬけと議論できたところが、古代中国の高い精神状態を現している。日本で『孟子』を積んだ船は沈む、と言われたのもこんな議論があるからだ。王の権力は自明のものではなく、仁義のシステムの中で義務を果たすか否かで評価される、相対的存在となる。臣下が主君を討つことを正当化するこの「湯武放伐論」(とうぶほうばつろん)をどう解釈すべきかは、儒教の一大難問である。実際周の武王の挙兵に対しても、伯夷はあくまでも諌めた。そして伯夷もまた賢者であったと評価されるのである。

殷の紂王は恐ろしく能力のある人物であったが、おごり高ぶり家臣の諌言を口でやりこめて聞かず、人々はみな自分以下だと思って臣下に傲慢であった。妲己(だっき)を寵愛して酒池・肉林の快楽にふけり、人民は怨んで諸侯は叛き始めた。すると紂王は刑罰を強化して烙格(ほうらく)の刑を定めた。烙格の刑とは、炭火を焚いた上に油を塗った銅の柱を渡し、その上を歩かせる刑である。熱伝導の高い銅の上に油だからすぐにすべり落ちて焼け死ぬ。おじの比干(ひかん)が見かねて諌言すると、心臓を抉り取って殺した、、、この辺は、『封神演義』などにも詳細に書かれているから、知っている人も多いだろう。『封神演義』では全部妖魔の化身妲己が紂王を操っていたことになっているが。

孔子の高弟子貢は、「紂王の不善も、本当はあんなにもひどくはなかった。だから君子たる者は川の下流にいる(ように低水準なことをする)のを嫌う。天下の悪をみんな帰せられるからだ。」(『論語』、子張篇「紂之不善也、不如是之甚也、是以君子惡居下流、天下之惡皆帰焉。」)と評している。合理主義的で冷静な子貢の言葉らしい。実際、歴史の真実としてはそうだったのだろう。というよりも「勝てば官軍」で勝者の周が正義であることを主張するために紂王の悪をことさらに捏造したというのも十分に考えられる。殷王朝末期には祭りが大規模化し、高度な技術と労力を使う青銅器が多数作られるようになった。歴史上の紂王は版図の拡大に熱心な、軍事を好む王であったようだ。つまりこの頃時代の流れとして殷王室に富が集まる趨勢が強まっていたのであろう。ひょっとしてわが平清盛のように、積極的にやりすぎて周囲をしらけさせたのかもしれないが。

だが、思想にとっては、そんな詮索は小賢しいことだ。

武王は、聖人として悪政から天下を救うためにやむなく兵を起こした。そうせざるを得ないまでに紂王は、不仁・不義の悪の権化である。悪の権化だから、王の位にいても王でなく、ただの人として武王に誅殺された。現代の王も、必ず仁義の道を目指せ。紂王の事は、倫理的にあった事実だと要請されるのだ。それをぼやかすことは、現代の人の上に立つ者に言い訳を与えて甘やかすことになる。

この紂王の話には、きっちり不仁不義とは何かが表されている。紂王は有能である。有能だからおごり高ぶり、目下の者をあなどって仁の心を失った。仁の心を失ったから「偕(みな)と楽しむ」ことをせずに己一人の快楽にふけり、仁の心を失ったから人民や諸侯は「目上の人はえらい」の感覚を持てずに離反した。自分が不仁のために秩序が乱されているのに、それを省みることなく、統制のために残虐な刑罰に頼る不義を行うようになった。それでも諌めてくれる親族の愛も裏切り、もはやこれでは人非人である。殷の王族全部を悪の対象にしていないところがうまい。そうだったら少なくとも紂王は親族とは仲良くするだろうから、必ずしも不仁とは言えなくなる。紂王は一番情けを示すべき親族にも残虐な仕打ちをしたから邪悪なのである。

下手な例えをするならば、紂王のような輩は独りで回転していい気になって楽しんでいる独楽(こま)にすぎないということだろう。コマを回している力に気付け、というわけだ。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教ならば、それはもちろん天の父なる神である。啓示された数々の御言葉は、被造物たる人間が何様であるのかを思い知らせ、そして神に愛され魂が滅びないためにはどのような善行をなすべきかが書いてあるのだ。一方儒教はそのような天からの直接の啓示を持たない。なら自分で「天の意に沿っている」と合点していれば、何をしても許されるのだろうか? − それへの答えは、梁恵王章句下、十公孫丑章句下、一などに提出されているのであろう。「地上の人から支持されることが、天意に沿った正しい道である。それを踏み外すと、地上の人に見放される。」言うまでもなく、この戒めが戒めとして成り立つには、人が地上の他人の視線を何よりも気にして、「他人に配慮する」心を至上の善として信じている必要があるのだろう。

仁義の道とは社会に向けられた正しい心のあり方である。これを乱すものは人に愛されない。人に愛されない者には地上の人によって罰が下されるだろう。こういった筋道を典型的なケースで示しているのが、紂王の話なのである。逆に、この辺りをぼやかすと、孟子の儒教は単なる目上の者への盲従となってしまうに違いない。事実、後の歴史はそうなってしまったようだ。

(2005.09.22)



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