告子章句上
十六
孟子曰、有天爵者、有人爵者、仁義忠信、樂善不倦、此天爵也、公卿大夫、此人爵也、古之人、脩其天爵、而人爵從之、今之人、脩其天爵、以要人爵、既得人爵、而棄其天爵、則惑之甚者也、終亦必亡而已矣。
孟子は言う。
「天爵というものがある。人爵というものがある。仁・義・忠・信を伸ばし、そして楽しんで善を行なう。これが、天から各人に与えられた徳としての天爵である。一方、公、卿(大臣)、大夫(上級家老)の位が人爵である。いにしえの人は天爵を修養して、人爵は後からついてきた。今の人は人爵を得んがために天爵の修養に努めようとする。そしていったん人爵を得たならば、もう天爵を棄てて顧みない。これは何というひどい迷いか。これでは結局滅びの道しかない。」
《★故事成句★》
「天爵」(天から与えられた尊いもの。すなわち善を成しうることができる、人間の心。)
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公孫丑章句上、七で「仁は、天の尊爵である」と言われた。ここではそれを「天爵」と言って、「人爵」と対比させている。ここで孟子は人間が天から与えられた積極的価値を強く称えるのである。告子章句で孟子は何やかやと生煮えの論理を用いて論敵と論争するが、その言いたいことはただただ「人間の持つ天与の価値をないがしろにするな」ということに尽きる。それは論理を越えた宗教的確信なのだ。論争して決着が付くと言うものではない。
本章は公孫丑章句下、二の問答と照応しているというべきだろう。もう一度繰り返せば、天下には最も尊いものが三つある。すなわち、「爵」すなわち爵位の身分、「歯」すなわち年齢の功、そして「徳」すなわち人徳の道である。朝廷においては、「爵」が最も尊重される。地域社会においては、「歯」が最も尊重される。そして世を治め民を率いる事業においては、「徳」が最も尊重されるのだ。だから、世を治め民を率いる事業を成そうと志すならば、「徳」を最も尊重しなければならないというのである。ここで言う「爵」が本章の「人爵」に対応していて、一方「徳」が「天爵」に対応していることは明らかであろう。孟子はこれらの章で、政治において「何をなすべきか」という価値の方が、朝廷で「どれだけ尊い身分であるか」という価値よりも尊重されるべきだと主張するのである。
以下の章も、本章の主張の繰り返しである。結局告子章句の前半は、告子の「人間の本性は善でも不善でもない」という主張に反論するところから始まって、人間の本性は善で仁も義も人間の本性から発するものだと論ずる。しかしそれならばどうして不仁の人間がいるのか、優れた人間と劣った人間がいるのかという疑問が起るだろう。孟子はそれに対して「志を持って努力し、自分の『天爵』を伸ばすかどうかで人間は差が付くのだ」と主張するのである。それは、人間に努力を促し、先天的な境遇にあきらめずに自らの可能性を伸ばすべきだという積極的な倫理である。北東アジアの各国で『孟子』が愛読されたゆえんである。
しかしながら、孟子は性善説を主張しながらも、人間は後天的な努力で善不善の分かれ目が付いてしまうと結論する。それでは結局のところ、現実の人間の多様性に対する解釈としては性悪説の荀子と何ら変わらない。むしろ人間の素質を信頼しすぎて、しかも「多くの人々が不仁なのは、努力が足りないからだ」と簡単に片付けてしまう。それは社会問題の複雑さを軽視することになりはしないだろうか。『孟子』は宋代以降儒教の最重要テキストに認定されることになったが、その結果エリート士大夫の独善を助長して社会改善への目を閉ざしてしまった弊害だけは、言わずにはおられない。
あの広大な中華帝国を、ごく一握りの儒教的教養を身に付けたエリート士大夫で統治し、しかも性善説に立って自分の身を治めることだけに専念する。それでは細やかな統治などできるはずがない。十九世紀の清朝後期になっても南の広東省は「化外の地」(統治の行き届かない地域)などと呼ばれ、沿岸部は万単位の配下を抱える海賊の跋扈する所であった。その頭目の張保仔(? - 1822)と彼の義母で後に妻となった石氏(「鄭一嫂」とも呼ばれる。1775 - 1844)が率いる海賊軍は軍紀厳正にして強力で、腐敗した政府軍は彼らを討伐できずに手を焼いた。彼らや福建省沿岸を中心として暴れまわった蔡牽(? - 1809)らは沿岸の一部住民とも手を組んで堂々と海賊活動を行ない、さながら海上王国を形成していたのであった。結局蔡牽の海賊王国は政府軍によって滅ぼされたが、張保仔の方は政府の勧告に応じて投降し、官軍の海軍将校に任じられて安楽に余生を過ごしたのであった。彼のパートナーの石氏もまた、余生を全うすることができた(石氏についは、J. L. ボルヘスが短編小説を書いている)。彼らのエピソードは、確かに冒険物語としては面白い。だが、はっきり言ってこんなデタラメを許す統治では、より精密な組織運営法を知り各人もまた怜悧狡猾であるイギリス人の来襲に対していかんともし難ったのも当然だろう。一人林則徐が頑張ったところでどうにもならないのは明らかではないか。
時代がさらに下って1920年代、民国時代の上海。当時の民国は袁世凱死後の北京政府に権威なく、各地で軍閥が純粋に私利私欲を求めて醜い争いを繰り広げる、この世の地獄であった。そんな暗黒大陸に突出して聳える大都会が、国際都市上海であった。そして上海を取り仕切っていた大ボスこそ、杜月笙(とげっしょう、1888 - 1951)という怪物であった。彼は親分の黄金栄の地盤を受け継いで上海のアングラマネーを取り仕切り、蒋介石と盟友になって政商の色彩も加えた裏の名士であった。金と人脈と仁義によって多くの著名人と交友関係を結び、その羽振りは戦国四君の一人、楚の春申君(しゅんしんくん)にも譬えられたのである(春申君の封地は、現在の上海一帯であった)。彼の世話になった文人エリートには、「革命三尊」の一人に数えられる
章炳麟(しょうへいりん)や、一旦袁世凱に帝政を勧めながら後に共産主義に接近した楊度(ようど1874‐
1931)などまでがいた。杜月笙は慈善事業にも熱心で、上海の乞食からも声援を贈られたという。なるほど人物ではあった。しかしながら、結局彼の回りにあった上海は、法の支配も社会的公正もない地獄であったことに変わりがなかった。人間関係だけによって動いていた当時の中国社会に決定的に欠けていたのは、傑出した個人の仁義ではなくて、社会全体の公正なシステムであったのだ。非常な中国通であった後藤新平や幣原喜重郎(1872 - 1951)らの政治家が中国社会と住民に対して全くの不信感を表明していたのは、当時の状況から言えばあながち故無きことではなかったのだ。
告子章句上はもうこれで終わりにして、後半に移る。
《次回は告子章句下、二》
(2006.02.22)