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離婁章句下



三十




禹・稷當平世、三過其門而不入、孔子贊之、顏子當亂世、居於陋巷、一箪食、一瓢飮、人不堪其憂、顏子不改其樂、孔子贊之、孟子曰、禹・稷・顏囘同道、禹思天下有溺者、由己溺之、稷思天下有飢者、由己飢之也、是以如是其急也、禹・稷・顏子、易地則皆然、今有同室之人鬪者、救之雖被髮纓冠而救之、可也、郷鄰有鬪者、被髮纓冠而往救之、則惑也、雖閉戸可也。

夏王朝の創始者、禹(う)。周王室の祖先、稷(しょく)。この両名は、おおらかな泰平の世に生きた人物であった。なのに、忙しさのあまり自分の家の門の前を三回通り過ぎても入る暇とてなかった。孔子は、彼らを賢人と称えた。孔子の高弟、顔回。彼は、変動極まりない乱世に生きた人物であった。なのに、街の裏路地に住んで、飯籠とヒョウタン一つずつだけしか食器がない貧しさで、常人ならばとても耐えられない貧窮の中にあってその楽しみをいっこう損ねなかった。孔子は、彼もまた賢人と称えた。
孟子は言う。
「禹と稷と顏回は、その道は同じなのだ。禹は天下に誰か溺れている者がいれば、まるで自分が溺れているかのように思い込んだ。稷は天下に誰か飢えている者がいれば、まるで自分が飢えているかのように思い込んだ。だから、あんなにもあくせく走り回ったのだ。禹と稷と顏回は、もし彼らがその立場を変えれば、きっとそれぞれ同じことをしたはずだ。たとえば今、同じ家に住んでいる同居人で争いが始まったとしよう。その場合、これを仲裁するのに髪も冠も整えずにとにかく必死になる。これはよいことだ。一方、同じ地域に住んでいる住人同士で争いが始まったとしよう。その場合、これを仲裁するのに髪も冠も整えずにとにかく必死になる。これは筋違いだ。たとえ自分の家の戸を閉ざして喧嘩から避難したとしても、別段かまわないのだ。(このように、自分の立場に応じた範囲内にいる他人に、必死になるべきなのだ)」

数年前、朝の満員電車に乗っていたときのことだ。横で立っていた年配のおやじとその前に座っていたOLとの間で、口論が始まった。どうやらOLが手に持っていた傘が、おやじの靴をしたたか踏みつけたようだ。OLが一言も謝らなかったので、おやじは頭に来たのだろう。おやじは「一言謝れ」とOLに言ったが、OLは全く謝ろうとしない。両者とも冷静さを失った問答となってしまっていたので、双方とも低く出るのを拒否する雰囲気に進展していた。だが明らかに非はOLの方にあったので、OLの方は理ではまともに反論できない。だんだんOLはおやじに押し切られていった。するとそのうち、OLは「、、、、臭い。あんたクサイ!おやじはホントにクサイよ!、、、あっち行って!」などという下劣な言葉でおやじを無視しようとし始めたのだ。そしてその後もはやOLは、下車するまでおやじの方向を向こうとしなかった。イヤな風景だった。


それを横で見ていた私は何もしなかったので卑怯者だが、「だからOLはけしからん!」などとここで主張したいのではない。人間には防衛本能というものがあって、自分の負けを認めることを拒絶したがる傾向がある。そういうかたくなさを本来持っている人間に正義を教えて説得するのは、果たして言葉だけでできるのだろうか?

西洋には、言葉による説得を用いれば、見知らぬ人でも必ず分からせることができるはずだという言葉への確信 ― というより信仰 ― があるに違いない。政治家の演説から始まって、小説やハリウッド映画など、ことごとくその前提で作られている。話者のバックグラウンドなどよりも、その話された言葉じたいの説得力で人は動くはずだと強く信じている文化が、西洋文化である。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』で、独裁者シーザーを暗殺したブルータスが公衆に向けて語った義を、直後にアントニーは演説でシーザーの功績を情を交えて語ることによって転覆させることに成功した。このシーンはまさに言葉の力への確信をよく示している。

だが、北東アジア社会はその文化を共有しているだろうか?

本章で孟子は、同居人の争いと家の外の郷里での争いとでは君子の態度は異なると主張する。君子は同居人の争いにはなりふり構わず仲裁するべきだが、家の外での争いには介入する必要もなく、戸を閉ざして逃げてもよいと言う。しかし「君子は危うきに近寄らず」とは言うものの、こんな奴はハリウッド映画ならばまちがいなく卑怯者として後でひどい目に会う、ヒーローの引き立て役にされるだろう。この彼我の違いは何なのだろうか。

前章で、君子は「仁でなければ何も行なわず、礼でなければ何も行なわない」と言われた。礼に外れたことはたとえ善意から来ることであっても、君子は謹むと言うのだ。盡心章句下、二十三で、孟子は斉に飢饉が起こって人民が孟子に倉を開く運動をしてくれることを期待したのに、それを拒絶したという。これは孔子にも類似のエピソードがある。彼らは善意から来る行動よりも、礼の規則に従うことを選ぼうとするのだ。

意地悪な視点から言えば、孟子がそのような態度を取る理由は、利己的なものだ。担当の役職にもないのに慈善的な運動をしたところで、何一つ自分のためにならない。見知らぬ人間の争いを仲裁に出たところで、自分に危害が加わるかもしれないリスクに比べて受け取るものは何もない。「命ある間が全て」の中国的世界観では、天からもらった命は何よりも大事なものなのだ。「天命を知る者は、ガケとか崩れかかった塀のそばには立たない」(盡心章句上、二)と孟子は言うのである。しかるべき立場に立って、飢饉を救済して争いを仲裁できる役職に就いて事業を行なわなければ、見返りがない。君子はそんな損なことをしないのである。

しかし、孟子や孔子が「礼」に従うことを強調することには、それとは別の側面もまたあるのではないかと、私は思うのである。つまり、「礼」の規則に従った社会的段差が話者の背後になければ、疎遠な人への説得は無理だという考えがあるのではないだろうか。

もとより儒教の倫理観では、自分と一般人との関係は最も疎遠なものであるから、情愛はほとんどないに等しい。つまり、親兄弟や友人のように親しい仲どうしの交流が成り立つ余地は、まず全くない。そのような関係において、両者が有意義なコミュニケーションを成り立たせるために依拠すべきものが、儒教にとって「礼」だと考えるべきではないだろうか。すなわち、身分として上下の関係にあり、担当の役職に就くことによって、情の通わない疎遠な相手に対してこちらの意図を通じさせることができる。おそらく斉の飢饉の際に孟子が動かなかったのはものぐさだったからではなくて、決意を持ってあえてしなかったに違いない。礼から外れた行為であっても善意があれば疎遠な他人と交流できると思うことは、孟子にとって誤りなのだ。だから、家の外での争いに仲裁に出たところで、自分の善意が他人に通じることは難しい。疎遠な他人の争いを仲裁するためには、自分が格上の立場に立って双方を威服させなければならない。孟子は、疎遠な他人と関係するにはどうすればよいかという文脈で本章を語っているのではないだろうか。

本章で言及された顔回の態度の他にも、伊尹(いいん)の例がある。伊尹は賢者であったが、夏の桀王が天下に暴政を行なっていた時期においてすら一人悠々と農夫の生活を送っていた。殷の湯王が使者を送り出馬を要請しても、「私は一人尭舜の道を楽しむ」と言って追い返した。伊尹が重い腰を上げたのは、湯王が何度も腰を低くして再三出馬を願い、その人徳にようやく感銘したからであった。そうして伊尹は国政を担当し、天下のために尽力したという。このように伊尹は、一農夫である限りは外界の乱世など全く無視していた。しかし、孟子は伊尹を賞賛するのである。

「疎遠な相手どうしでも、言葉で理性的に説得すれば通じる」というのは西洋社会では信仰に似た確信であろう。だが北東アジア社会では、おそらく言外の装置を補強することによって言葉の効果を伝統的に埋め合わせていたように思う。それが年長者を始めとする目上の者を社会的に格上とみなす儒教道徳なのではないだろうか。加えて、利害関係を持つ商売相手どうしは他人でも誠実な関係になりうるという商業道徳があり、特に日本社会では徳川時代の都市で支配的となった。しかし利害関係もなく、しかも疎遠な関係の者に対して言葉だけで説得ができるという確信は、おそらく北東アジア社会には非常に薄いのではないだろうか。つまり、「礼」の規則に従った社会的段差が話者の背後にあるからこそ、疎遠な人を威服することによって説得できるという考えがあるのではないだろうか?

その礼による秩序を国と国との関係に適用したら、中華帝国と周辺の朝貢国との関係になるだろう。上下の関係があることを前提とした外交しか北東アジア社会には長らくなかったのである。基本的に上下関係を認めない日本が「化外の国」として外交秩序から弾き出されたのは、当然であった。現代の外交においても、どうも北東アジア諸国の間ではなかなか理性による対話を通じた外交が成り立っていないように見える。これは伝統がなさしめる後遺症なのであろうか?

だから、電車の中で見知らぬ人のマナー違反に注意するなど智者のすることではない、と儒教ならば考えるだろう。社会的段差もなしに、疎遠な相手が説得に応じる可能性はない。相手が聞かざるを得ない立場にこちらがないかぎり、説得しようとしても無駄だ。よくて相手を怒らせてこちらが一日中不快になる。悪ければ刺し殺されるかもしれない。君子はそんな徒労をするべきでない。疎遠な人民を教化したかったら、しかるべき位に昇って相手を威服できる立場となり、その上で説得するべきだ。それが礼を知った智者の行動である。これが、儒教倫理なのだろう。韓国では中国以上に年長者を敬う「悌」(てい)の倫理が発達しているというが、これも疎遠な他人に対して合意を取り付けるための社会的智慧として解釈することができるのではないだろうか。一方日本は「悌」の倫理がもともと弱かった上に、戦後、特にこの二〜三十年で急速に衰弱した。そのため疎遠でしかも利害関係のない他人どうしのコミュニケーションの型が、非常にわかりづらくなっていると感じる。自由が社会に浸透することの代価であろう。もしその空虚を言葉によるコミュニケーションの型で埋め合わせることができないならば、行政の権威への依存傾向が逆に今後高まっていくのかもしれない。


《次回は離婁章句下、三十一

(2006.01.13)




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