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離婁章句下



十三




孟子曰、養生者、不足以當大事、惟送死、可以當大事。

孟子は言う。
「親が存命中に孝養するのは、わざわざ大きく強調するまでもない。だが死んだときに立派に葬儀することだけは、大事なのだ。」

本章について、吉田松蔭は朱子の解釈を一応肯定しながら、さらに別の解釈として「當」の字を「当てる」と読み、「親が存命中に孝養する者は、まだそれだけでは大きな仕事に当てることができない。親が死んだときの葬儀で立派にふるまうことができるかどうかで、大きな仕事に当てることができる人物かどうかを判断すべきだ」などという読み方を提案している。一方朱子の解釈は、上の訳のようなものである。その場合「當」は「なす」と読むべきだ。

しかしながら、なぜ生きているときの孝養はわざわざ強調するまでもなく、死んだときの葬儀が大事なのだろうか?

私思うに、それは、孟子の基本的な倫理のスタンスから出てくる主張なのだ。孟子の儒教にとって、親と子の関係は「親」つまり親しむ関係である。親と子の関係は情愛を基礎にしていて、仁の心のいちばん始まりの地点である。そして孟子は仁の心は人間の本性から出るものであるから、人間にとって自然で難しくないと主張するのである。本章句上、十一を見よ。「人のなすべき事は、実は簡単なことの中にある。なのに人はこれを難しいことに求めようとする。真実はこうなのだ。人々が自分の親を親として敬い、世間の年長者を年長者として敬うことをすれば、結局天下は平らかに治まるのだ」と。また盡心章句上、十五を見よ。「人は、特に学習しなくてもできる『良能』というものがある。また、熟慮しなくても理解することができる『良知』というものがある。ほんの幼な子でも、その親を愛することを知らない子はいない。その子が大きくなって、兄を敬わない者はいない。親に親しむのは仁の精神である(他者への愛)。兄を敬うのは義の精神である(他者との秩序感覚)。なんということはない。小さい頃にあった心を広げて天下に及ぼせばよいのだ」と。万事がこの調子だから、孟子にとって親子の関係は人間にとって本性のままに行なうだけの、簡単なことなのだ。簡単なことでなくてはならないのだ。そうでなくては、仁の心を伸ばしていくところに政治の要諦を見る孟子の説が成り立たないのだ。

だから、親への孝養は本性から出るもののはずだから、孟子にとってわざわざ強調するまでもない。だが親が死んだならば、葬儀を立派に行なうことは仁の心の及ぼすままに行ないえないだろう。対象がもはや生きていないからである。したがって、立派な葬儀を参列者の前で行なうためには、正しい秩序感覚の「義」から出て「礼」に基づいた、むしろ疎遠な対象に向けて行なうべき倫理が必要となる。そのときには人間は情愛を基礎とした行動では足らず、倫理的な決意を持って親の葬儀を粛然と行なわなければならない。だから、「死んだときに立派に葬儀することが、大事なのだ」と言われるのではないか。本章は、孟子の倫理学説から論理的に導き出される行動規範なのである。

だが、「親子の関係がそんなに自然にうまくいくわけないじゃないか?」と疑問に思えば、本章の主張は基礎からゆらいでしまう。本章句上の最終章で舜と父の瞽ソウとの関係を見たが、後妻との間の子を偏愛して先妻との間の息子をけむたがる父親は、普通にいるだろう。殺そうとする父親だって、実際にきっといるはずだ。父親が妻の連れ子をうるさがって殺す事件ならば、ほとんど毎月のように起きている。子供が継父や継母と何とかうまくやっていくというのは麗しい家族ゲームとしてテレビドラマになる。だがドラマに仕立てられるほどまでに、実際にはうまくいくわけがないというのが世間の了解なのである。そんなに複雑な家庭環境でなくても、子供には反抗期というものがある。幼少の頃は親になついて円満な家庭かもしれないが、やがて人間の中にある「非社交性」が目覚めて親から距離を取ろうとする。親や学校の先生が子供をどなりつけるのは、そのときだ。孟子のあまりに単純な親子観とは違って、たいていの親子は反発の時期を通って、その向こうに一定の距離を取った関係を持って和解するのだろう。私は孟子の性善説も荀子の性悪説も、それを社会思想的文脈から切り離した純粋な人間観と見るならば、それぞれ人間の一面しか見ていない説だと思っている。それよりもカントの主張する説が正しいと思う。つまり、人間には「社交性」と「非社交性」の二面が存在して、「社交性」があるから人間は互いを求めずにはおられないのであり、かつ「非社交性」があるから人間は他人を出し抜こうとして、それは進歩の原動力を作るだろう(カント『世界公民的見地における一般史の構想』を参照)。子供の反抗心は、きっと進歩の原動力である。現在、子供に反抗期がなくなったと言われているが、おそらくそれは底に沈殿しているだけなのではないか。むしろそれが分別あるべき大人になって爆発することの方が恐ろしい。

結局本章も、後世では「普段親に孝養するのは倫理として当たり前で賞賛するに値しない。だが、ただ一回限りの葬式をきちんとすることが、孝行として最も大事な行為なのだ」という読み方が主流となってしまい、子の親に対する一方的服従をよしとする硬直した儒教倫理に沿った解釈が当たり前となった。だが本章の主意は、孟子の「ほんの幼な子でも、その親を愛することを知らない子はいない。親に親しむのは仁の精神であり、小さい頃にあった心を広げて天下に及ぼせばよいのだ」というオプティミスティックな人間観が背後にあるはずだ。孟子が一方的な支配服従関係を決して肯定しないことは、君臣の関係に対する主張を見れば明らかだと思うのであるが?


以下も格言的な章やこれまでの主張の繰り返しが続くので、二十二までのコメントは省略する。


《次回は離婁章句下、二十三

(2006.01.09)




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