鄒(すう)の穆公(ぼくこう)との問答は一章で終わり、この章からは後の滕文公章句で再び頻繁に登場する滕(とう)の文公との問答になる。前章の地図を見ればわかるように、滕は斉の南にある極小の国で、次章で見るように大国斉の圧力をひしひしと感じていた。
孟子は思想家であって、「妥協の芸術」を行うべき現実的な政治家ではない。管仲や晏嬰を政治家として評価しない孟子に現実外交を聞いても無駄なことである。この章のように答えるしか術がない。
遊説して仁義の政治を主張しているのに、現実の政治課題となるとこの有様である。だから、このように言われる。
(現代語訳)孟子に至ってはその事(管仲らに政治的力量が及ばないこと:訳者)が孔子よりもひどい。戦国時代当時、封建貴族諸侯どもはようやく合一の勢いを見せ、しかし弱きを助け強きをくじく覇者の政治はまだ行われずに、弱肉強食の時節となって、蘇秦・張儀の輩がまさに四方に奔走して各国を助けたり破ったりの合従連衡の戦争にせわしなかった世だったので、貴族といえども自分の身すら安心できなかった。なんで人民のことを思ういとまがあるだろう。なんで『五畝の宅、、、』(梁恵王章句上、三を参照)など気にかけるいとまがあるだろう。ただただ全国の力を攻防の事に用いて、君主一個の安全を謀るしかなかった。たとえあるいは名主仁君がいたとしても、孟子の言葉を聞いて仁政を施せば政治と共に自分の身も危うくする恐れがある。見よ、滕が斉と楚にはさまれて、孟子に名案が何もなかったのも一つの証拠である。わたくし、あえて管仲・蘇秦・張儀らに味方して孔子孟子を排斥するわけではないが、ただただこの二大家が時勢を知らず、その学問を当時の政治に施そうとして、かえって世間の嘲笑を受け、後世に益することがなかったのを悲しむ。
(福澤諭吉『文明論之概略』より)
あまりにも痛烈である。政治を説いているのに、現実の時勢政局を見ようともしない孔子孟子の主張は何のためだ。無益有害ではないか。そして福澤は孔孟にとどめを刺す。
(現代語訳)孔子孟子は一世の大学者である。古来稀有の思想家である。もしこの人たちをして卓見を抱かしめ、当時に行われる政治の範囲を脱して、あたかも別に一世界を築き、人類の本分を説いて世世万代でも通用する教えを定めしめたならば、その功徳は必ず広大なものであったはずなのに、彼らは終身この(君臣父子の道徳:訳者)範囲の内に篭絡させられて一歩も出ることができず、その説く所もこのために自ずから体裁を失い、純情の理論ではなくて過半は政談を交え、いわゆる「ヒロソヒイ」(フィロソフィー、つまり哲学のこと:訳者)の品位を落とすこととなった。その道に従事する輩は、たとえ万巻の書を読むも、政府の上に立って事をなさなければ他になすべきことがないかのごとく、身を退いてひそかに不平を鳴らすしかない。何とこれは卑劣ではないか。孔孟の学流がもしあまねく世に行われたならば、天下の人はことごとく政府の上に立って政治を行う人となってしまい、政府の下にいて統治される者はいなくなってしまうに違いない。人間に智愚と上下の区別を作り、おのれ自ら智者の位置にいて愚民を治めようとするのに急ぐために、世の政治に関わろうとする心もまた急である。ついに熱中煩悶して『喪家の犬』(迷子になってしょんぼりしてる犬。孔子をあざけった言葉)のそしりを招くに至ったのだ。わたくしは聖人のためにこれを恥じる。
(福澤、同上より。赤字は訳者)
上に引用した後半の「儒者は自分が賢者だと思って下を見下す卑劣な思想である」という批判は、実は『論語』の中でも儒教学派への批判として投げかけられた言葉と同型であり、痛烈ではあるが実はあまり新味がない。おそらく孟子の思想はその批判に一旦動揺し、その上であえてそれに反論することによって(よくも悪くも)形成されたと思われるが、それはまた別の機会で検討しよう。
むしろここで注目したいのは、上の引用で福澤が投げかけた批判、「純情の理論ではなくて過半は政談を交え、いわゆる「ヒロソヒイ」の品位を落とすこととなった」という点である。福澤は、ここで孔孟の「ヒロソヒイ」が政治を交えているのを不純と見なしている。
理論家の説(ヒロソヒイ)と政治家の説(ポリチカルマタル)とは大(おおい)に区別あるものなり。(『文明論之概略』より)
というのが、ここで力説される主張である。朱子学が北東アジア社会の現実政治にもたらしたはなはだしい害悪を見れば、福澤の主張はまさにもっともである。だが、あえて問いたい。孔孟の教えは、むしろ福澤の言う「人類の本分を説いて世世万代でも通用する教え」を目指したがゆえに、「ヒロソヒイ」と「ポリチカルマタル」を同一の地平で論じてしまったのではないだろうか?そして真剣に考えたからこそ「ヒロソヒイ」と「ポリチカルマタル」がいっしょくたになってしまって、結果「ヒロソヒイ」に「ポリチカルマタル」が混入し、一方「ポリチカルマタル」に「ヒロソヒイ」の理屈を混ぜて妙に清潔な空論を立ててしまったのではないだろうか?言い換えれば、「ヒロソヒイ」と「ポリチカルマタル」をはっきりと区別して論じるためには、心の正しさと社会の掟を切り離す「特殊な」教えが必要だったのではないか?
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
(『ガラテア人への手紙』より)
共同体のきずながあやふやとなり始めたローマ帝国で次第次第と勢力を増していったキリスト教の初期伝道者、パウロの言葉である。この手紙の本来の受け手には、もともと共同体の掟に対する不信感があり、それゆえにイエスを信じることにより心に完全な正義を得ようとする病んだ社会に住む人々の渇望があったのではないだろうか。「地上の掟を守ることに正義はない。イエスを心で信じることだけに正義がある。」
だがこの書は、ずっと後に若くて活力のあるゲルマン人たちに再発見された。
「私は法と関係がない」パウロは叫ぶ。彼はこれ以上の法の権威に対する破壊的な言辞を出しえなかっただろう。パウロは自分が法を気にしないと宣言し、法によって正当化されたくなど全くないと宣言する。
法に対して死ぬことは、法から自由になることである。ならば、いったい何の権利があって、法は私を非難するのか。何の権利があって、私に反対するものを持っているのか。君、法の桎梏の下で苦しんでいる人を見かけたなら、彼にこう言いなさい。「兄弟よ、物事を正しく見据えろ。君は法が君の良心に語りかけていると思っている。法が君の肉体に語りかけるようにするのだ。目覚めろ、そしてイエス・キリストを信じろ、法と罪の征服者イエス・キリストを。キリストへの信仰は君を法のはるか高みに持ち上げ、ほまれある天にまで持っていく。法と罪は残るかもしれない。だが、それらはもう君に関係がない。なぜならば君は法に対して死に、罪に対して死んだのだ」(英語訳からの転訳)
この言葉が、伝統的権威や専制権力の桎梏の下に苦しむ停滞した社会の人に対する呼びかけだったならば、おそらく表面だけ従ったふりで心はそっぽを向くような心を作りあげたであろう。だが、これはルターの『ガラテア書講義』の一部である。人々はこの言葉を古い権威からの心の解放のために待ち望んでいた。「地上の掟を守ることに正義はない。イエスを心で信じることだけに正義がある。」こうして宗教改革が始まる。イギリス革命が始まる。やがて宗教色が後退した後でも「制度権威恐るるに足らず、良心は各人にあり」の精神は残って、アメリカ独立、フランス革命となる。そしてひとしきりの革命の嵐が終わった後、心の良心は社会に気兼ねする必要などない、人の目を気にする前に良心に問い掛けろ、という「善」に対する前提が作り出されたのではないだろうか。あまりにも単純化して話していることは、私も自覚している。
一方そのような特殊な教えに揺さぶり動かされた段階を経ていない北東アジア社会は、相変わらず他人の目を気にし、社会の中の自分の位置付けにしか「善」を見出せず、「他人に配慮する」心を満足させると安心する。世間の目を気にしているから、まじめな人がまじめに考えるとそのさらに上の天下国家にまで善を見出さないと安心できない。幕末から明治を経て昭和戦前までの日本社会のあり方は、実はそのようであったのではないか。日本人は福澤のいう「天下の形勢、国民の気風」が昇り調子だったから、政治も経済もうまくいった。むしろ、前章でも言ったように、日本は孟子の理想とする君民が一体となって共に戦う社会が実現した稀有な実例だったのではないのか?
福澤だって、欧米列強にぐるりと囲まれた中で開国して国を保全するためには因習を捨てて開化進取の道を広めるしかない、と痛烈に思っていたからこそ明治初期に『文明論之概略』を著した。彼の活動の動機もまた孔孟が昔真剣にその良きあり方を考えた「他人に配慮する」心あってのことだったと言えば、少々「孔孟弁護のために福澤に意趣返ししたいのかよ?」という非難が返ってきそうなので、このぐらいにしておきます。
(2005.09.29)