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萬章章句上






萬章問曰、或謂孔子於衛主癰疽、於齊主待人瘠環、有諸乎、孟子曰、否不然也、好事者爲之也、於衛主顔讎由、彌子之妻、與子路之妻兄弟也、彌子謂子路曰、孔子主我、衛卿可得也、子路以告、孔子曰、有命、孔子進以禮退以義、得之不得曰有命、而主癰疽與侍人瘠環、是無義無命也、孔子不悦於魯衛、遭宋桓司馬將要而殺之、是時孔子當阨、主司城貞子、爲陳候周臣、吾聞觀近臣、以其所爲主、觀遠臣、以其所主、若孔子主癰疽與侍人瘠環、何以爲孔子。

萬章が孟子に問うた。
萬章「このようなことを言う人がいます。いわく、『孔子は衛で癰疽(ようそ。『史記』孔子世家に出てくる宦者の雍渠のことか?)の世話になり、斉でも侍人(じじん。宦官のこと)の瘠環(せきかん。詳細不明)の世話になった』と。これは本当にあったのでしょうか?」
孟子「そうではない。物好きな輩の作り話だ。

孔子は、衛では顔讎由(がんしゅうゆう。孔子世家では顔濁鄒になっている)の世話になったのだ。弥子暇(びしか。衛の霊公の寵臣)の妻は、孔子の弟子の子路(しろ)の妻と姉妹であった。その弥子暇が子路にこう言った、『これから孔子が私の庇護を受けられるならば、孔子を衛の卿(大臣)にしてあげることができますよ』と。子路がこのことを孔子に告げたら、孔子は言った、『天命というものがある』と。つまり、孔子は進むに礼に従い、退くに義に従い、官職を得るも得ないも天命というものだと言ったのだ。

もし癰疽とか侍人の瘠環とかの宅に宿泊したのならば、それは義と礼をないがしろにすることではないか。孔子は魯や衛では何かと面白くないことが多かった。宋では司馬(しば。役職)の桓魋(かんたい。タイは鬼+ふるとり)が待ち伏せして彼を殺そうとしたので、賤者の服で身を隠して宋を通り過ぎたものだ。この頃孔子はひどい災厄に当たったものだが、(それでも進退の筋を通して)司城貞子(しじょうていし)の庇護を受けたのだ。彼は、陳侯の側近であった。(*)

余はこう聞いている、『譜代の家臣の人物を見るには、彼に頼ってくる者を見よ。遠くから仕官してきた家臣の人物を見るには、彼が頼ろうとする者を見よ』と。もし孔子が癰疽とか侍人の瘠環とかに頼って世話になったのならば、それのどこが孔子と言えるだろうか?」

★故事成句★
「好事者」(こうじしゃ)(通常「好事家」(こうずか)として使われる。物好きでいろいろ詮索する人。)

(*)原文「爲陳候周臣」。これを「陳候周の臣たり」と読めば、「司城貞子は陳候周という者の家臣であった」となる。だが孔子が陳候周の家臣となったという説もあるようだ。一説に「周」を「至」のことだと解して、「司城貞子は陳候の至近の家臣であった」とする。「周」には「比周」(群がって徒党を組む)という言葉もあるように「めぐる」という意味があるから、ここでは仮に「陳候の側近であった」と言う意味に取ってみた。

次は、肝心かなめの儒教の教祖、孔子についての疑義である。孔子は有名人であり多数の弟子がいたので、その事跡は教団の内外で豊富に伝承されていたようだ。萬章はその中から、孔子が斉や衛に居留していたときに宦官の庇護を受けていたというエピソードを取り上げた。それに対して孟子は「それは好事家どもの作り話だ!」と切って捨てる。教祖にあるまじきエピソードは、全部作り話として無視するというわけだ。いかにも宗教である。

孔子は、長い間故国の魯の隣国である衛にいたことがあった。魯の定公(ていこう)が国政を怠るようになってしまったことに見切りをつけて、弟子の子路の妻のつてがある衛に向ったのだ。その後再び魯に戻るまで約十四年間各国を行ったり来たりしたが、時々衛に戻ってきては居留している。魯と衛は親しい兄弟国だったので、孔子としては戻るに気安かったのであろうか。また孔子が斉にいたのは、彼が三十代後半の時期である。魯の昭公が魯国を牛耳る大貴族である三桓(さんかん)と戦って敗れ、斉に亡命した時期であった。その時期に国の乱れを嫌ったか、斉に行って仕官した。そのとき斉の景公と会見できたが、宰相の晏嬰(あんえい)は「孔子の礼儀学問は時代錯誤であるから召抱えないように」と進言したという(晏嬰については、梁恵王章句下、四公孫丑章句上、一を参照)。結局その後に孔子は再び魯に戻り、亡命先で死んだ昭公の後を受けた定公の下で頭角を表すこととなる。

孔子は自らも述懐しているように、元は低い身分の人間であった。『史記』孔子世家では、孔子十七歳のときのエピソードとしてこのような記事を載せている。すなわち、三桓の一家の季氏(きし)が国の士人(一般家臣)を招待したことがあった。若い孔子がそこに出かけていくと、季氏の家臣の陽虎(ようこ)に門前払いを食らった。陽虎は言った、「本日は士を招く宴会である。お主のような年少の賤しい者を饗応する場ではないぞ!」と。後に孔子の令名が高まった時に彼を政治に誘おうとした陽虎であったが、この時期にはこのようにあっさり冷たくあしらわれる程度の家であったのだ。

その後孔子は周に留学したりして勉学に励み、やがて魯でも認められるようになった。彼は倉庫の吏(り。下級役人)から始めて次第に官職を上げ、さきの陽虎がクーデターを起こして失敗した後の政治的空白の中で、大司寇(だいしこう。司法の最高職)にまで昇ったのである。正にここまでは立志伝中の人物であったと言ってよい。孔子の面白いところは、自らの思想的立場は古い礼楽の文化を維持継承しようとする保守主義であったが、彼の生涯は既存の身分秩序を打ち破って上昇していくものであったところにある。現状の身分秩序を越える権威としてむしろ古来からの伝統を持ち出したところに、孔子とその弟子たちの一見矛盾した運動があった。

だからこそ、後世の孟子らにとって教祖は絶対無謬の存在でないと都合が悪いが、当時を生きていた孔子としては時に脇道にそれた策に頼らざるをえなかったかもしれないことは、十分に考えられることではなかろうか。孔子には手持ちの資産としては自分で築き上げた学問の名声があるだけで、支配階層に血縁的なひろがりがあったわけではない。何もしなくても国の内外で重用せられる実力など、孔子は持っていなかったのである。斉や衛で宦官の世話になったというのも、君主に近づく策としてやむをえなかったのかもしれない。

私は孟子の反論とは違って、本章のようなエピソードはあってもおかしくなかっただろうと考える。後世から見ると、まるで孔子はキャリアの初めから誰もが認める賢者であったかのように思いがちである。しかし実際には孔子の名声はゆっくりと広がっていき、時間が経つに従ってその革新性(保守主義者であるが、、、)が時代とマッチしていることが認識されて、国を越えた権威となっていったはずだ。有若、子張、子游、子夏といった孔子の有力な弟子が師よりも四十歳以上も年下であったことは、孔子が年配になったある時期から彼の下に急速に弟子が集まり始めたことを示唆していないだろうか?


(2006.02.01)



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