盡心章句上
四十五
孟子曰、君子之於物也、愛之而弗仁、於民也、仁之而弗親、親親而仁民、仁民而愛物。
孟子は言う。
「君子というものは、人間以外の動物植物その他のモノについて、これを愛玩するけれども仁すなわち他人への情けの心をもって接するわけではない(だから時に殺したり、壊したりする)。同様に、一般の人民について、これを仁の心で接するけれども、家族兄弟として親しむわけではない(だから他人として一定の距離を置いて接する)。両親には親しみ、人民には仁の心で接し、モノは愛玩する。そういうわけだ。」
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儒教の主張する差別愛の構造を、簡潔に表した章である。離婁章句上、十二を初めとした、離婁章句全体を参照。
これまでも繰り返し述べたように、儒教の倫理体系は、身近な対象への情愛から「他人に配慮する」心である仁を拡げていくべしと主張する。すなわち自分の周囲に対して、親>友人>目上の者>人民>非人間という順序で親密な関係の構造を持つべしと説くのである。超越的な神も輪廻の連鎖も想定せず、人間の素直な心から直接導き出される情愛を体系化するからこのような構造となるのである。しかし全ての人が天上の父なる神の被造物であると考えるキリスト教などの一神教や、動物はおろか阿修羅・餓鬼・亡者・天人までもを加えた輪廻の連鎖の中で今ここに生きる人間を考える仏教においては、全く違った他者への倫理観が打ち出されるであろう。日本人の倫理観も、儒教の差別愛の構造とは多少異なっているようである。もっとも(厳密な)一神教や仏教の倫理観とは、さらに隔たっていると思われるが。
(2006.03.29)