前章の利己心論のつづきである。前章で孟子は仁義の道によって各人の利己心を克服させよと説いた。それでは国の全ての長である君主自体はいかにふるまうべきであるか。まず恵王は自分のぜいたくな生活について「賢者もまたこのような快楽を享受するものなのだろうか?」と孟子に問う。自分の豪奢な生活に正当性がないのではないか、という成り上がり者の不安である。もしここで西洋のストア派の徒ならば、王にこう言うだろう。
真っ先に徳を歩ましめ、これに旗を持たすべきである。それでも今後なお、快楽を感ずることに変わりはない。しかし、われわれは快楽の主人となり、それを制御するものとなろう。時にはわれわれに哀願する快楽もあろうが、われわれを強要することは決してないであろう。
このように自分の心がけを持つ賢明な者であれば、
諸君は問うであろう。「あの人は哲学に熱心なのに、なぜあのように贅沢な暮らしをしているのか。財産を軽んずべきものと言いながら、なぜそれを持っているのか。生命を軽んずべきものと考えるのに、しかも生きているのか。(中略)」だが、哲学者が財産を軽んずべきだと言うのは、それを持ってはならぬ、というのではなく、それに心を動かされずにもて、ということなのである。彼は財産を自分のところから追い出すのではなく、財産が去って行っても心静かに見送るだけである。(中略)所有した財産も投げ捨てるわけではなく、これを保持して、自分の徳に役立つ一層大きな材料に使おうと望むのである。
ゆえに、
いまだかって、英知に対して貧乏という罰を科した者はいない。哲学者は十分な資産を持つものもあろうが、しかしそれは誰から奪ったものでもなく、他人の血に染ったものでもない。誰かを傷つけて手に入れたものでもなく、汚い遣り口で得たものでもない。それが入ってくるのも出て行くのも、同じく正統であり、悪意を抱く者以外は、これを恨む者はないであろう。こういう財産なら、好きなだけ積み上げるがよい。立派な財産というものは、各人がみな「これが自分のだったら」と言いたいものはそこに沢山あっても、誰もが「これは自分のものだ」と言い切れるものは何一つそこにない、そういったものである。
(以上、セネカ『幸福な人生について』(茂手木元蔵訳)より)
このように、賢人として心を快楽の奴隷となさず、正統に得られた富を正統に享受し運用せよと説くであろう。要は個人の魂を高潔に保ち、詐欺でなく取引で富を得よ、という個人主義である(実はこのストア派の理想とする高潔な姿勢は、儒教の「君子」が取るべき態度と一見極めてよく似ている)。だが、孟子の考えでは、いやしくも人の上に立つ者にとって個人主義は許されない。人間は社会の中で他人との関係の中にしか心のあり方を持ちえず、それが仁義を本質とする人間存在である。だから、文王のような賢者は「偕(みな)と楽しむ」ことによって楽しみを得たとされる。逆に桀王のように私的な快楽を追う者こそ人の上に立つ己の立場をわきまえず、他人との関係にだけ存在する人間の本性を裏切る詐欺である。自らの楽しみが人民にとっても楽しみとなれば、人民はそのような君主を深く敬慕して、君臣まるく治まるであろう。
かくのごとく、「偕(みな)と楽しむ」のが賢明な君主のあるべき態度とされる。目上の者が自分だけの快楽を追求して周りには知らんぷりなどもっての他なのである。日本では政治家や経営者が私利私欲の行為に走ると往々にして激しい憤激を招く。合法的な活動であったとしてもそうなのである。この心情の奥底には、「目上の人」に対して何かを期待しているとしか思えない。もし個人主義が貫徹しているならば、政治家はただ政治の業務をしている「職業としての政治家」(独:Berufspolitiker)でしかなく、経営者はただの「成功した人」でしかない。不正がなければ憤激するのは筋違いであり、同時に「目上の人」として尊敬する必要など一切ない。だが、どうやら政治アジェンダの遂行や株価の上昇以外の何かを期待しているようだ。もしあなたが会社で(別にクラブでもいい)初めて何か人の上司となるポジションに昇格したとき、課せられた業務をいかになすべきかだけを考えることなくて、目下の者にいかによき上司として見られるべきかもまた考えるような人だとするならば、あなたは孟子の主張を100%はねつけることができる個人主義者ではない。ましてや部下に合わせて付き合い残業などしたらもうだめだ。そして自分だけさっさと帰ったらどのような報復が襲い掛かるかも、皆が知っている。こんなところには、個人主義など全くない。
部下の管理も業務のうちだから、一定配慮するのは当然給料の範囲内だ。だがそれを仕事としてなすか、「よいこと」としてなすかは全然違うと思う。
だが、ストア派流の個人主義は一人一人の良識と矜持心に呼びかけるだけの、強制力のない倫理にすぎない。
キリスト教は一歩踏み込む。
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(『マタイによる福音書』より)
こうして、キリスト教では天の父に見られる関係に人間の心の方向を全て吸収する。真に敬虔な者ならば、天の父に何もかも見られているから、地上の視線はどうでもよくなるだろう。逆に、天の父が人を死んだ後に全て裁く。裁かれるから地上で不正をなすことはできない。こうして、地上の人間関係はいったん解体された後、天の父の視線の下に再構築される。だから、キリスト教は地上では一見個人主義のように見えるが、天上の世界までひっくるめて見れば強烈な家父長専制体制であり、むしろ孟子の倫理を極限まで強化したものだ。
一神教のような絶対神を考えない北東アジア社会において、地上の枠内で押し進めた倫理の完成した一つの形が孟子の儒教であるといえよう。北東アジア人として、そう簡単に一笑に付すことはできそうにない。