盡心章句上
十九
孟子曰、有事君人者、事是君、則爲容悦者也、有安社稷臣者、以安社稷爲悦者也、有天民者、達可行於天下而後行之者也、有大人者、正己而物正者也。
孟子は言う。
「まず、君主に仕える段階の人がいる。君主に仕えて、それにへつらって受け入れられることを喜ぶ。次に、社稷を安んずる(国の神さまを安泰にする、すなわち王朝を安泰にする)段階の人がいる。社稷を安んずることを喜ぶ。次に、天民というべき段階の人がいる。正しい道が天下に行なわれる見込みが立ってから、しかる後に行動する。最後に、大人(たいじん)の段階の人がいる。己を正しくして、外物を正しくしようとするのだ。」
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離婁章句下、十一などで説かれた大人(たいじん)が、ここではいわば政治的人間の最高の段階として位置付けられる。孟子は以前、伊尹のことについて述べて、「余は自分を枉げて人を正すことのできた者など、いまだかつて聞いたことがない。いわんや自分を辱めて天下を正すことなどできるはずがない」と言ったことがあった(萬章章句上、七)。本章の「己を正しくして、外物を正しくしようとする」ということも、その精神と同じである。大人と形容するべき君子たるものは、外物に囚われてそれに影響されて進退を行なってはならない。ただ己の中の仁義の道に従うのみなのだ。
本章で、孟子は単に君主に仕えるだけの人物のみならず、社稷(王朝)のためにひたすら心を砕く忠臣すら軽く見ている。通常想定される「理想の下僕」とも言うべき忠臣と、大人と形容されるべき君子とははっきり違うのである。三国時代の人物たちを見ても、主君への忠義のためには命をも賭ける関羽や張飛などの武将と、横のネットワークを縦横にはりめぐらせてしかるべき主君を選んで仕えようとする徐庶や諸葛亮などの教養人たちとの行動規範は、ずいぶん違ったものであった。
(2006.03.16)