離婁章句上
四
孟子曰、愛人不親、反其仁、治人不治、反其智、禮人不答、反其敬、行有不得者、皆反求諸己、其身正而天下歸之、詩云永言配命、自求多福。
孟子は言う。
「人を愛して親しまれなければ、自らの仁を反省してみよ。人を治めて治まらなかったら、自分の智を反省してみよ。人に礼を行なって答えがなかったら、自分の敬愛心を反省してみよ。何か他人に行なってよい反応を得られなかったら、すべからく自分自身に原因がないか反省すべし。己が正しければ、やがては天下すら従うようになるだろう。詩経に言う、
とこしえに、天命に従い、
自らの手で、福を呼び寄せなさい。
(大雅『文王』より)
と。」
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これまでも主張され、本章句では繰り返し説かれる己の正しさに社会倫理の根拠を求める説である。自分が正しくあることが天命に従うことであり、自分に福をもたらすと同時に天下を治めさせるだろう。自分が正しくなければ自分の身も危うくなり、天下もまた乱れるだろう。このような自分の正しさと天下の動静との対応は、あくまでも人の上に立って人の注目を集める為政者のための倫理である。一般人は本来関係ない。エリートたる君子ですら公職から退いたら自分自身を守る倫理に戻ってかまわないことは、本章句下、三十に書かれた原理が示している。一般庶民ですらお国のためを憂えて死ぬことが要求されるのは、大衆社会になってナショナリズムという別種の倫理が心の中に入り込んできたからである。教育の普及とともに各人がより高いものへの奉公心に誘導されることは必然的ななりゆきであったが、そもそも一般庶民には国家から逃げる自由がないし、己を正しくして公共に献身したとしてもそれは義務であって自分に何の福も帰ってこない。だから儒教の倫理とはちょっと違うのである。善の根拠を全て自分以外のものに吸収してしまうのが、ナショナリズムの倫理なのだ。なぜそのような考えが支配するのかといえば、自分の中に正しさの根拠を見出せないからである。第一次大戦では、多くの貴族階級や首相の子弟までもが一兵卒として前線で戦って多数の死者を出した。その進退が君子として仁義の道に適っているかを自らに省みる暇もなく、宣伝される大義に引きずられて行動せざるを得なかったのだ。二十世紀という時代は、上流階級の心の中にまで容赦なくナショナリズムやコミュニズムといった自分以外のものに根拠を求める倫理が入り込んでいった時代であった。
さて、本章でも『詩経』からの引用がなされている。『詩経』は國風・小雅・大雅・頌の四つのグループから成っている。上の『文王』が含まれる大雅のグループは、周王朝で歌われた比較的長い詩のアンソロジーである。それを読むと、大半は戒めの詩となっている。天命に背き、父祖の遺法に背き、百官人民を顧みないことは滅亡への道であると繰り返し詠まれている。ユダヤ教の預言者たちの戒めと同じスタンスなのである。もっともユダヤ教の父なる神は契約違反の民に直接罰を下すが、古代中国思想ではそこまではっきりした天の介入ルートが示されない。ただ人の行いを通じて実現されるとされる。「上天の意思は/声も香りもないが/文王の制度に従えば/よろずの国はまこととなる」(大雅『文王』。原文「上天之載/無聲無臭/儀刑文王/萬邦作孚」)と歌われているように(萬章章句上、五も参照)。
こういった教訓的歌謡や失政を憤る歌は、後世の漢詩にも多い。曹操の詩は当たり前だが濃厚に政治性を帯びているし、杜甫・白楽天は人民の苦しみを詩に書いた。詩に倫理観を盛り込むことは、中国ではいにしえの時代からの伝統である。一方、日本古代の歌謡のあり方は違う。『古事記』に収録の歌謡は天皇をことほぐもので、そこに教訓はない。滅亡や死も歌われることが避けられている。なぜそうなのかという問題は難しいが、私が個人的に思うにヤマト王朝の歴史というものが、実はかなり新しいのではないかと思ったりする。興亡を経て支配者が天命を受けて代替わりするという世界観がまだ実感として成立しないところに、外来の仏教や中国文学がドッと入ってきた。そしてこれらの用語によって以後は社会的・政治的倫理観が構築されるようになったのではないだろうか?中国の歴史書が入ってきたことの化学反応として列島の歴史が「構築」されたのであって、本当はそれこそ西洋のフランク王国(486 - 987)とヤマト王朝自体の歴史は大して変わらないのかもしれない。とにかく、人生の暗い面や倫理的教訓が文学に入り込むのは、仏教と中国文学を受容してからだ。
中国で仏教が衰えて周辺的地位に追いやられたのは、伝統思想にすでに倫理観が十分備わっていた原因が大きいのではないか。人間倫理として、古来からの伝統思想で完結しているのである。一方日本が外来思想を捨てられないのは、外来思想を援用して初めて人間倫理が成立するからではないだろうか。ゲルマン人やスラブ人がキリスト教を捨てられないのと、同様である。何も腹を立てることではない。
以降五〜九の章は同様のテーマが続くので、コメントを省略します。
《次回は離婁章句上、十》
(2005.12.20)