盡心章句上
二十七
孟子曰、飢者甘食、渇者甘飮、是未得飮食之正也、飢渇害之也、豈惟口腹有飢渇之害、人心亦皆有害、人能無以飢渇之害爲心害、則不及人不爲憂矣。
孟子は言う、
「飢える者は、食べ物ならば何でもうまいと思う。渇く者は、飲み物ならば何でもうまいと思う。しかしこういった状態では、飲食の本当の味がわからないものだ。飢えや渇きが、味わうことを阻むのである。飢えや渇きが害をもたらすのは、口や腹での味わいだけではない。人の心もまた、飢えや渇きによって害されるものだ。それゆえもし人が飢えや渇きによっても心を害することなく生きることができるならば、その者は暮らし向きが人に及ばないことなど憂いとしない心の持ち主であろう。」
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飯疏食飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。
粗末な飯を食べて水だけを飲んで、肘を曲げて枕とする。その中にもまた楽しみはあるのさ。不義で富貴を得ることなどは、余にとっては空の浮雲のようにどうでもよい。
(『論語』述而篇)
本章もまた、外界の富貴貧困や運不運に左右されない心を称えるものである。『論語』の上の章などと同様の主旨のことを述べている。孔子には、子貢と顔回という両極端の金運を持った弟子がいた。子貢は商才に長けて、百万長者として後世まで名を残したほどであった。他方顔回は極貧の生活を送った。しかし子貢は、孔子に彼と顔回のどちらが優っているかと尋ねられて、「それがしがどうして顔回を目標にできましょうか。顔回は一を聞いて十を知ります。このそれがしは、一を聞いて二を知るだけです」(公冶長篇)と答えたという。孔子は顔回を称えて、
賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其樂、賢哉回也。
顔回は賢明なことよ。食事は箪(竹の箱)一かごの飯だけ、飲み物は水だけで、路地裏に住んでいる。普通の人ならば、その貧しさで憂いに耐えないだろう。なのに、顔回はその楽しみを翳らせない。顔回は賢明なことよ。
(雍也篇)
と評している。顔回が楽しく生き続けたという点を孔子が評価している所が、最も重要なところである。単なる武士のやせ我慢とは、少々違う心意気なのだ。
(2006.03.21)