離婁章句下
十一
孟子曰、大人者言不必信、行不必果、惟義所在。
孟子は言う、
「大人は言うことを必ずしも実行しない。またやっている事業を必ずしも貫徹しない。ただ、義のあるところに従ってなすことだけがその原則なのである。」
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「大人」(たいじん、ダーレン)とは、現代中国語でも使われている用語である。日本語の「大人」(おとな)とは概念が違う。中国語の「大人」は、「立派な人」というのが本来の意味で、転じて組織のボス格の人物に使われたりする。歳を取っているだけでは中国語の「大人」にはなれないのだ。それは「君子」とだいたい同じ概念といえるだろう。
離婁章句下では、本章の他に「大人」への言及が二つの章でなされている。六では、「礼でない礼と、義でない義は、大人は行なわない」と述べられ、十二では「大人とは、赤子の心を失わない者のことである」と言われている。そして本章では、「大人は言ったことを必ずしも実行しないしやっている事業を必ずしも貫徹しない」という。しかしそれでは、本章句上、二十二で孟子が言う「人が自分の言葉をくつがえすのは、責任を感じていないからだ」という戒めとずいぶん矛盾しているようであるが?
本章句下、二十(通常の編集では十九の後半とされている。当該の章参照)で、聖人舜の行動原理が述べられている。いわく、「舜は、、、心の中の仁義の道に従って行動した。決して仁義の道を(外から学び、教えられた規則に準拠して)行動したわけではない」と。つまり、自分の心に聞いて正しいと確信する道に従って舜は行動したのであって、外から教えられた教条的な規則に従ったのではない、という考えだ。公孫丑章句で述べられた、あの「自ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千萬人といえども吾往かん」の心がけである(公孫丑章句上、二)。だからそのような心を持つ「大人」は、一度言ったことにいちいち心が拘束されないと言うのであろう。やりかけていた事業でも効果がないと見切ればスッパリ中断できるのであろう。そしてそれが「赤子の心を失わない」者だと、孟子は言うのであろう。要は教条的な考えに捕われずに、自分の心に聞いて行動せよという主張である。
だが当然、以上のような考え方だけではただの独善にすぎない。自分の仁義が外界によって検証されなければ、自分のなしていることが社会的に正しいかどうかなどわかりはしない。その検証のプロセスは、本章句上、十二で検討された。自分の心の確信による行動を、外界によって検証を繰り返しながら正しい道に従えていくのが、実践倫理としては穏当だろう。それゆえ、経験を繰り返した者ならば、無責任な発言がどのような結果をもたらすのかは知っておかなければならない。「人が自分の言葉をくつがえすのは、責任を感じていないからだ」という戒めである。だが一方で、それが教条的な規則になってしまって心を縛ってしまってはせっかくの「天爵」がだめになってしまうとも考えるのであろう。本章句下、十八で孟子が源泉のたとえで心の中から湧き出でるものに従うのが君子であると言う、まさにその力の源泉を見失うなという教えである。孟子の言いたいことは、だいたいこのようなものではないか。
『孟子』にはこういった章があるから、荻生徂徠に批判されるのである。心の外にある決まったルールがないので、社会を束ねる基準が軽視される誤解を招く。それは主観絶対主義に導かれやすい。法刑とは人間の外にあって有無を言わさず適用される、人間の心とは無縁の社会ルールであるのか。それとも法刑とは人間が自発的に善悪を感じ取って自発的に従うべき、本来人間の心に内在的な社会ルールを固定したものにすぎないのか。法社会学的に言えば、どちらの側面もあるのだろう。だが孟子じしんは後の告子章句で仁も義も人間の本性に内在的なものだと強弁して、主観絶対主義に道を開きかねない言動を残した。それが孟子の本心だったのか、それとも異説を論破するためにあえて行なったレトリックに過ぎなかったのかは、何とも言えそうにない。
《次回は離婁章句下、十三》
(2006.01.06)