離婁章句上
十
孟子曰、自暴者、不可與有言也、自棄者、不可與有爲也、言非禮義、謂之自暴也、吾身不能居仁由義、謂之自棄也、仁人之安宅也、義人之正路也、曠安宅而弗居、舎正路而不由、哀哉。
孟子は言う。
「自分自身を出鱈目にしてしまう人間とは、共に語ることができない。自分自身を投げ出してしまう人間とは、共に何かをなすことができない。何か言えば礼儀をそしる者は、これを自暴という。自分自身を仁に落ち着けて義に則ることができない者は、これを自棄という。仁とは人の『安宅』なのだ。義とは人の『正路』なのだ。その安宅を空けっぱなしにしておいて住まず、正路を捨てて通らないとは、なんと哀しむべきことではないか。」
《★故事成句★》
「自暴自棄」(自分を出鱈目にして、自分を投げ出してしまうこと。)
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「自暴自棄」の出典の章である。「安宅」の表現は、公孫丑章句上、七の再出となる。ここでは「正路」としての義と対で述べられている。
本章は公孫丑章句全体の主張のリプライズである。仁も義も「天爵」として捉えられる人間不変の徳であるから、それに準拠すれば心は安定するし社会的な正義が得られるだろう。逆にそこから外れる者は人間の本性が分かっていない不智者であって、それは自棄すなわち自分の「天爵」を投げ出しているのである。仁義を顧みない人間は、それが正しく発揮される社会的なルールである礼儀も顧みない。つまり自暴すなわち出鱈目である。不仁・不義・不礼・不智の人間はケダモノ同然にすぎない。そのような人間と共に語っても意義がないし、共に事業をなしても成功するはずがない。だから、君子はそのような輩とまともに付き合う必要はない。本章は、孟子の倫理学説を圧縮して表現している。
儒教は人間の道として仁義の心を説くが、キリスト教のような無差別無条件の博愛を主張しない。天上の父なる神のまなざしの下で、天国に富を積むために「だれかがあなたの頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(『マタイによる福音書』)という倫理を持たない。キリスト教は被造物としての全人類が悔い改めることを神は望んでいるという考えのもとに、人類全体の潜在的共同体を想定しているから許しの倫理が強く説かれるのである。世俗的には大は福祉国家論から小は職場の助け合いまで、すべて「共同体の同胞なのだから、自暴自棄の者でも救いの手を伸ばしてやろう」という精神が大なり小なり働いている。だが儒教はそのような共同体の倫理ではない。だから自暴自棄の愚か者に厳しいのである。孔子も零落した旧知の原壌(げんじょう)という者に対面したとき、「おまえは幼年時に恭謙でなく、長じても他人から評価されず、老いてはまだ死なない。そんな奴は、賊と言うのだ!」(「幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死、是爲賊!」)と杖で叩いたというエピソードが『論語』にあるぐらいである(憲問篇)。
だが、自分が仁義の道に正しく則っていることを確信していても、それは早合点かもしれない。自分が不完全であってそのため相手と調和できないのに相手をそしるならば、本人こそが自暴自棄だ。それを防ぐための自己反省のプロセスは、次回の章で検討したい。
《次回は離婁章句上、十二》
(2005.12.21)