梁恵王章句上下は、おそらくシステマチックに配列された章句である。
小林勝人氏は、司馬遷が『史記』孟子苟卿列伝で、
余読孟子書、至梁恵王問何以利吾國、未嘗不廃書而嘆也、曰、嗟呼、利誠乱之始也。
余は、孟子の書を読み続けて、梁の恵王が『何がわが国の利益となる方策となりますか。』(原文、「何以利吾國」。自由な引用である)という所に至ると、いつも読書を中断して嘆息せざるをえない。ああ、利はまことに乱の始まりだ。
と書いていることを取り上げ、「、、、この言葉から察すると、孟子の最初の部分から読んできて、梁恵王問何以利吾國の個処(くだり)に来るまでには、当然途中に若干の文字が書かれていた筈であるから、現在のように梁恵王問何以利吾國という文字がいきなり劈頭第一章の一番最初にあったのでは、どうみて辻褄が合わないのである」と分析しておられる(岩波文庫『孟子』解説より)。つまり、この梁恵王章句冒頭の梁恵王との問答は、前漢時代には『孟子』冒頭になかったのではないか、という推測だ。だがこの巻が以降に続く詳細な理論的論述とは違って思想のエッセンスを王との問答で陳述しているところを考えると、私はやはりこの章句が冒頭にあるのは正しい位置付けだという印象を持つ。しかし、司馬遷の当時に『孟子』がどういう並びで編集されていたのか、現行の並びになったのはいつなのかはよくわからない。そしてこの梁恵王章句じたいも配列が司馬遷の当時も現行と同様であったのかどうかも、よくわからない。ただ、孟子死後の戦国時代か、あるいは秦漢時代かはわからないが、孟子の思想的意図を充分に理解した編集者のなせるわざであるとは思う。
前にも書いたが、梁恵王章句が大国の君主との問答のあとに小国の君主との問答を持ってきているのは、おそらく意図的な配列だ。そして孟子の主張は大国小国関係なく、一切変わらない。「大事なのは、仁義。これだけです。」(梁恵王章句上、一)、「自分の親を敬う心を他人の親にまで及ぼし、自分の子供をいつくしむ心を他人の子供にまで及ぼせば、天下は手のひらで転がすがごとく用意に手に入りましょう。」(同上、七)、「君子のなすことは創業すること、後世に続く手がかりを作ることです。後に継がれるべきことをひたすらなすのみなのです。」(同下、十四)
孟子はどうして具体的な現実政治のことについて何も言おうとしないのだろうか?彼には孔子よりもさらに硬化したドグマチックな言説が見て取れる。
それは、実は簡単なことだ。孟子の説は、宗教の教義だからである。湯王や武王の奇跡の勝利はモーセの紅海渡りと同じく完全にあった歴史的事実とされる。次の公孫丑章句では、孔子を「聖人」認定して、教団の教祖に祭り上げる。過去の尭舜時代や文王の時代は、君主は君主らしく、賢者は賢者らしく、人民は人民らしくあった黄金時代として「構成」される(歴史は語るものの願望によって構成されるものだ。だから フランス語の histoire には「歴史」と言う意味と「物語」という意味があるのだ)。そしてそれらの時代を形作った原理は、何のことはない、人間の持っている「他人に配慮する」心が正しく発揮されただけのことなのだ。人間の本性にはかくのごとくすばらしい能力が秘められている。よろしく王たちよ、自らの「智」を働かせて目覚めよ。自分の中に「仁」「義」「礼」が全きものとして存在することを見出せ(この四つの至上善の関係については、次の公孫丑章句で検討する)。「他人を」求めよ。さらば、「天下を」与えられん。天下は今、仁君を日照りの中の慈雨のように待ち望んでいるのだ。天上の絶対神はいなくても、形式的には完全な宗教である。宗教なのにリアルポリティークのことを言う必要がどうしてあろう。
結局古代中国思想は、イエスキリストのように天国を語ることができず、来世での救いも終わりの時のよみがえりも全能の神の審きも言う道がふさがれていた(と思うが、実はそういう思想もあったが主流になれなかっただけなのかもしれない)。だから、「天国に宝を積む」教義を立てる術がなかったのである。そこで、孟子は君主の善行が地上の他人を感動させ揺さぶり動かして、やがては−自分の代でなくても、いつか− ご利益を結ぶと主張したのである。「情けは人のためならず」というありふれた格言を、執拗に大げさに主張したのが孟子の宗教の「福音」である。だからがんばれ。めげるな。「人知らずして慍(いきどお)らず」(『論語』、学而篇)が君子じゃないか。時代がよければそのうちわかってくれる。時代が悪くても後世のために誇りを持って生きろ。そういうメッセージが伊藤仁斎の目を開かせ、吉田松蔭を動かしたのであろう。
「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基づいて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてもよいでしょうか、いけないでしょうか」。イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは、「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
(『マタイによる福音書』より)
地上でローマに税金を払うかどうかで救われるかどうかが決まるとでも思っているのか。イスラエルのために納税拒否闘争をすることが救われるための足しになるとでも考えているのか。断じて違う。どんなによいことをしたって、神を信仰していなければ無だ。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「なぜ香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。彼がこういったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあtったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。イエスは言われた。「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつもあなたがたと共にいるわけではない」。
(『ヨハネによる福音書』より)
金を作って貧しいものに施したほうが、よほど人のためになる。確かにそうだ。だが、ユダはイエスを信じていない。それではだめだ。愚かでも救われるのはイエスを信じるマグダラのマリアだ。合理的でもユダは救われない。死人さえも蘇らせることができるイエスをまだ地上の論理で考えようとするのか。「金をごまかしていた」うんぬんは本質を見えなくしてしまう余計なくだりだ。
このような信仰による絶対的な救いとそれに比べて相対的な価値しかない地上の論理という二段構えができない以上、孟子の宗教は地上に千年王国を人間の力で作るべきだし、また作れるのだ、という熱烈な教義となる。それ以上でもそれ以下でもない。そしてここに、後世現実の歴史に対してこじつけとごまかしが積み重ねられる源がある。
ところで、今の時点で少しだけ今後の検討対象として気にかけておきたいものがある。「崇高さ」のことである。
孟子の儒教の「愛」とは、身内への愛や直臣への恩情(つまり惻隠の情)のことであり、そしてその延長上に天下への愛を考える。一方、他の宗教を見ると、イエスもシッダルタ(釈迦)も大きな愛と真理のためには、家族を捨てて省みなかった。中世イタリアの聖者アッシジのフランチェスコは、全てのものへの愛を実践するために、富者でありながら身の回りの全てを捨てた。身一つで托鉢と貧者への救済に専心した彼の信仰はやがて人を動かし、彼を慕う人々によってフランチェスコ修道会が形成されていく。
だが儒教は身の周りの人間たちへの「かたよった愛」を基礎にして「全てのものへの愛」を組み立てようとする。そこには他の宗教者たちが感じたような霊感による「崇高な」飛躍がない。「崇高さ」に心打たれなくて身近なものを越えて天下の人々を愛することなどできるのだろうか?私ははっきり言って懐疑的だ。諸葛孔明も、文天祥も、吉田松蔭もおそらく儒教の体系からはみ出た「崇高なもの」を見ていたはずなのだ。孟子の教義には「崇高さ」がないのか?それで天下を平定できるとでも思っていたのか?何度も言うが、中国には不遇や死を帳消しにする天国の発想がないので、どうも孟子の儒教の奥底には「犬死にすること」への恐怖があるようだ。その結果キリスト教などに比べて命を賭け切らないなまくらな思想となり、逆に言えば現世的で良くも悪くも信仰の深遠を飛躍する必要のない思想(宗教)となっているように思われる。この辺は私としても今は未整理な部分なので、いずれ改めて論じてみたい。
(2005.10.05)